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徳川 頼房(とくがわ よりふさ)は、常陸水戸藩の初代藩主。水戸徳川家の祖。徳川家康の十一男。 == 生涯 == 1603年(慶長8年)、伏見城にて生まれる。1606年(慶長11年)9月23日、3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで1609年(慶長14年)12月12日、兄の頼将(頼宣)の駿河転封によって新たに常陸水戸城25万石を領したが、幼少のため駿府城の家康の許で育てられた。水戸徳川家の石高は兄義直の尾張徳川家、頼宣の紀州徳川家の半分にも満たなかった。その理由として「常陸水戸徳川家譜」は、家康が3人に欲しい物を聞いたところ頼房が「天下が欲しい」と答えたことから、乱を起こすおそれがあると家康に疎まれたことを挙げている〔得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、34-35頁〕。また、『南紀徳川史』では頼房が徳川姓を許されたのは1636年(寛永13年)とし、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、同母兄・頼宣の分家とみなされていたという説もある〔『幕府祚胤伝』では、1609年(慶長14年)の従四位下左衛門督叙任の時に徳川氏を称したとある。〕。1610年(慶長15年)7月、家康の命により、実子市姫を亡くした英勝院(お梶の方)の養子となる。1611年(慶長16年)には元服、頼宣と同様に清和源氏の通字の一つである「頼」の字を用いて頼房と名乗った。1614年(慶長19年)、大坂の陣では駿府城を守備した。 家康の死後、駿府から江戸に移ったのちもしばらく水戸藩領には赴かず、1619年(元和5年)10月、17歳のとき初めて就藩した。しかし2か月後の12月江戸に帰り、次の就藩は1625年(寛永2年)である。江戸と領地を往復している兄の義直や頼宣と異なり、青年時代のほとんどを江戸で過ごした。これは秀忠が、頼房の1歳下の次期将軍・家光の年齢の近い身内として、学友的な立場に置いておこうとしたためという説がある。一方で『水戸紀年』には、若年の頃の頼房が異様な衣服や刀を纏い、行儀や節度のない振る舞いがあり、幕府が附家老中山信吉を呼んで譴責を加えようとしたので、中山信吉が命を懸けて諌言し改めたという話が残っている。 1626年(寛永3年)家光の上洛に同行し、8月19日、従三位権中納言となったが、同日、加賀藩主・前田利常や薩摩藩主・島津家久、陸奥仙台藩主・伊達政宗も従三位権中納言となったことに不満を持ったため、翌年早々に正三位に昇叙する。これ以後、同家は三位権中納言となった。 1625年(寛永2年)から1630年(寛永7年)まで、寛永3年の上洛の年を除いて毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下町造営、さまざまな法令を定め、城下の整備を行った。しかし1631年(寛永8年)、大御所秀忠が病となり(翌年1月死去)、将軍・家光の親政となると、頼房の就藩は途切れがちになり、家光死去の1651年(慶安4年)までの17年間、就藩はわずか3回となっている。この事が先例となり、水戸藩主は基本的に江戸常住である定府となった。1630年(寛永10年)6月、家光が英勝院を通じて、「其方之御事は別而心安思候まま心中をのこさす万談合申事に候、兄弟有之候而もやくにたたす候間、此上は其方を兄弟同前に思候まま、弥万事其心得可有候(そなたのことはわけても心安く思い、何事も相談したいと思っている。兄弟はいても役に立たないので、そなたのことを兄弟同様に思っている。そなたもそう心得て欲しい)」との書状を送っている(彰考館徳川博物館所蔵)。当時、家光の弟は2人いたが、実弟の徳川忠長は改易となり高崎に幽閉中であり、異母弟の保科正之は養子先の高遠藩3万石を継いでまだ2年目であった。一方、尾張藩主の義直や紀州藩主の頼宣には、かつて謀反の疑いがかけられるなど溝があった。こうしたことから、家光は頼房を頼りになる身内として江戸に常住させたようである。水戸藩主が俗に“副将軍”と称する論拠となった。 1661年(寛文元年)、水戸に就藩中に病となり、水戸城にて死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川頼房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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