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徳永耕治[とくなが こうじ]
徳永 耕治(とくなが こうじ、1968年9月3日 - )は日本の野球選手(内野手)。バルセロナ五輪代表では四番打者を務めた。 == 経歴 == 千葉工業高では長打力を評価されて一年からレギュラーを務め、三年になると捕手に転向し四番を任された〔毎日新聞、1992年7月3日付朝刊、P.23〕。全国大会出場はならなかったが、同じ県内の銚子商業の監督だった斉藤一之の紹介があり、卒業後は社会人野球の日本石油に進む〔JXENEOS野球部 若林重喜・徳永耕治 〕。1年目はブルペン捕手だったが、入社2年目のに指名打者制度が導入されたのをきっかけにチームの若返りの方針もあって四番を任されるようになり〔、同年の日本選手権には四番・DHとして出場。2回戦の対神戸製鋼戦で2本塁打、準決勝の対東芝戦でも2ラン本塁打を放つ活躍で、大会優秀選手に選ばれている。 以降はチーム内で不動の四番となり、一塁手にコンバートされたに若林重喜が入社するとツインバズーカと呼ばれる強力なコンビを形成〔。には日本選手権で24打数12安打、3本塁打、10打点の成績で打撃賞を獲得して優勝に貢献し〔、さらに同年の全日本アマ王座決定戦では3本の本塁打を放ちMVPを獲得した。日本代表の四番だった丹波健二が同年にプロ入りした事もあって、新たな主砲を探していた山中正竹監督の目に止まり〔、翌のバルセロナ五輪では日本代表にチームメイトの若林や坂口裕之、小桧山雅仁らとともに選出されている。五輪では四番・一塁手として全試合に先発出場し、いずれもチームトップの14安打、4本塁打、13打点の成績を残した。 しかし、指名を期待していた〔同年のドラフト会議でプロから声がかからず、野球に対するモチーベーションを一時的に見失う。野球を忘れたいほどの悔しさを感じ、オフには体重が8kg増えたという〔毎日新聞、1993年2月1日付朝刊、P.21〕。翌は打撃が上向かず、都市対抗スタメンは補強選手に取って代わられた〔。ここでチームメイトへの気遣いを見せてチームの優勝を陰から支え〔、2年後の1995年の都市対抗では六番・一塁手として2年振りの優勝に貢献。1996年の都市対抗は優勝こそ逃したものの、本大会への調整が順調だったこともあって若林とともに本大会で5本塁打を放つ活躍を見せた。これを花道に、同年で現役を引退している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳永耕治」の詳細全文を読む
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