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徳田大兵衛(とくだ おおひょうえ、1584年(天正12年) - 1634年2月13日(寛永11年1月16日))は江戸時代初期における薩摩藩日当山(ひなたやま)郷の地頭〔「鹿児島県史料集 旧期雑録拾遺 諸氏系図1」の『諸郷地頭系図』では大兵衛の名前及び地頭就任期間が漏れてしまっている。〕。徳田太兵衛(とくだ たへえ)とも呼ばれる。愛称は侏儒どん(しゅじゅどん)。石高は6石、のち3石。 ==経歴== 薩摩藩の御鷹師を勤めた後、日当山郷〔「角川地名辞典 鹿児島県」によると、現在の鹿児島県霧島市隼人町の朝日、西光寺、東郷、嘉例川。〕の地頭となった。島津忠恒(家久)、島津光久に仕えた。 慶長18年の「人衆賦帳」の陸小姓に「一人、『高六石』 徳田太兵衛尉」とある。また元和6年(1620年)の「薩隅日三州一所衆並びに鹿府衆中高極帳」に『徳田大兵衛 3石』とある。 寛永11年(1634年)、祝いの餅をのどに詰まらせて死去。寛永13年(1636年)に作成された「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」に徳田大兵衛及び与左衛門の屋敷が『新堀の上』にあり、等級及び広さは『中屋敷4畝』とある。なお、同地区には中西秀長が住んでいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳田大兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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