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1. (n,vs) drafting 2. draughting 3. requisition =========================== ・ 徴 : [しるし] 【名詞】 1. (1) mark 2. (2) symbol 3. (3) evidence ・ 徴用 : [ちょうよう] 1. (n,vs) drafting 2. draughting 3. requisition ・ 用 : [よう] 1. (n,n-suf) task 2. business 3. use
徴用(ちょうよう)とは、戦争中などに、政府が国民や占領地住民を強制的に動員して、兵役を含まない一般業務につかせること。 日本では、1939年(昭和14年)に国民徴用令が制定され、第二次世界大戦の終結まで行われた。また物品や施設、船舶等を徴発することも徴用と呼ぶ〔goo辞書「徴用」〕。占領地住民に対する徴用・徴発についてはハーグ陸戦条約に規定があり、正当な対価のない徴用・徴発は禁じられている。 == 日本 == 日中戦争の全面化によって、日本の戦争の長期化・総力戦化が確実な状況になり、相次ぐ徴兵に伴う労働力不足と軍需関連を中心とした需要と生産規模の急激な拡大によって労働コストが急激に上昇していった。この事態に対応するために軍需関連を中心とした労働力の安定確保を図る必要性が生じた。 日本では既に第一次世界大戦中の1918年(大正7年)3月に制定された軍需工業動員法が存在していたが、強制力は非常に弱いものであった。そのため、政府は1938年(昭和13年)3月に国家総動員法、翌1939年(昭和14年)7月に国民徴用令(国家総動員法第4条に規定された勅令に相当)を公布して国民の職業・年齢・性別を問わずに徴用が可能となる体制作りを行った。当初は国民職業能力申告令に基づいて申告を義務付けられた職能の技能・技術者を対象とし、職業紹介や各種募集で確保できない重要産業の人員確保に限定して、担当官庁が必要最低限の人数の徴用を行うとする限定的なものだったが、徴兵規模の拡大に伴う人員不足と賃金の上昇は深刻となり、特に1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後は深刻なものとなった。そのため、国民徴用令に伴う徴用命令が濫発され、翌1942年(昭和17年)には企業整備令が公布され、平和産業や軍需転用が困難な中小企業や商工業者は強制的な統廃合処分を行い、余剰人員を動員に振りあてた。1943年(昭和18年)の国民徴用令・国民職業能力申告令の改正によって徴用制度の整理と効率化が図られ、国家が必要と認める場合にはいかなる職能の技能・技術者でも指定の職場に徴用可能(「新規徴用」)とし、また特定の企業・業務従事者を事業主以下企業全体を丸ごと徴用することも可能(「現員徴用」)とした。その結果、1944年(昭和19年)3月までに288万人余りが徴用され、一般労働者全体の2割を占めるまでになり、結果的には強制的な産業構造の変化と労働者の配置転換を全国的に行う事態に至った。 こうした徴用は現実の食料などの物価上昇を無視して、一般国民を国家の命令で転職させて低賃金で働かせるものであったことから、大変評判が悪かった。当初こそは、徴兵に次いで国家に奉公する名誉が与えられたとする考えもあり、積極的に徴用に応じる空気もあったが、労働環境の劣悪ぶりと度重なる徴用令、そして勤務先の強制的な解散・組織全体の徴用などに伴って、徴用に対する一般国民の反発は高まっていった。既に1940年(昭和15年)の段階で徴用拒否者が問題化し、徴用の動員令状である「白紙」であった。徴用拒否は1943年~1944年頃には深刻化して徴用制度そのものが崩壊の危機を迎えた。このため、学徒勤労動員や女子挺身隊の名目で学生や女子などの非熟練労働者に対する動員が行われた。終戦時において、被徴用者は新規徴用161万、現員徴用455万、合わせて616万人が徴用されていた。 なお、野口悠紀雄など一部の学者からは、戦後日本の労働制度と戦時中の徴用制度の共通性を指摘する意見も出されている〔野口悠紀雄『1940年体制』東洋経済新報社 1995年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徴用」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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