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心地 覚心(しんち かくしん、承元元年(1207年) - 永仁6年10月13日(1298年11月18日))は、鎌倉時代の臨済宗の僧。姓は恒氏。無本と号した。京都宇多野に位置する臨済宗建仁寺派の妙光寺を開創した。 == 生涯 == 信濃国筑摩郡神林郷(現在の長野県松本市)に地頭の常澄兼久(恒兼久)の子として生まれる。1221年(承久3年)神林の神宮院に入り 29歳の時に奈良東大寺にて受戒、高野山で伝法院の覚仏に従い真言密教を学ぶ。また金剛三昧院の退耕行勇に師事し密教禅を修めた。この時、源実朝の霊を弔う為に高野山に来た、葛山景倫(後の願性)に出会う。師に随い鎌倉の寿服寺にも赴いた。山城(京都)深草の極楽寺に道元を訪ね菩薩戒を受け、上野世良田の長楽寺開山の栄朝、甲斐の心行寺の生蓮、京都勝林寺の真観らに学んだ。 1249年(建長元年)に入宋した。杭州湾口にある普蛇山に着き、中国5大禅寺のひとつである径山寺(興聖万寿禅寺)に上る。翌年、阿育王山に掛塔し、三年ほどその地で修行する。その後、天台山、大梅山に上る。杭州の霊洞山護国仁王寺の無門慧開(1183年-1260年)に参じ、その法を嗣ぎ1254年(建長6年)に帰国した。 帰国後、高野山の金剛三昧院に戻り、師の著作である『無門関』を請来した。 1258年(正嘉2年)願性(葛山五郎景倫。願生、願成とも。)の求めに応じて西方寺(後の興国寺)の開山となり、紀伊の由良に居を定めた。 亀山上皇(1248年 - 1305年)の帰依を受け、新建の南禅寺の開山となることを求められたが、断ったという。亀山上皇、後醍醐天皇より法燈禅師、法燈円明国師と諡された。 瑩山紹瑾(1268年 - 1325年)ら、多くの曹洞宗の僧らと交渉をもったため、その密教化に影響を与えたとされる。 また、後世尺八を愛好したとして、普化宗の祖ともされる。 心地覚心が中国からもたらしたといわれる金山寺味噌は、径山寺(きんざんじ)の味噌の製法を模したものと言われている。 なお心地覚心は安養寺 (佐久市)を開創し、信州味噌を誕生させたという〔『信州佐久いわんだ逸品会歴史編』いわんだ逸品会平成17年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「心地覚心」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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