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忍壁 皇子(おさかべ の みこ、生年不詳 - 慶雲2年5月8日(705年6月2日))は、飛鳥時代の皇族。忍坂部皇子、刑部親王とも記される。天武天皇の皇子〔『続日本紀』では第九皇子とあるが、異説もあり第四皇子ではないかともいう。〕。官位は三品・知太政官事。 == 生涯 == 天武天皇元年(672年)の壬申の乱で父天武天皇に従い吉野から東国に赴く。天武天皇3年(674年)石上神社に派遣され、膏油で神宝の武器を磨かせる。天武天皇8年(679年)吉野宮で六皇子盟会に参加し先の壬申の乱のような戦渦を起こさないよう誓約した。天武天皇10年(681年)3月17日に川島皇子、三野王、忌部首、中臣大島らと共に「帝紀および上古の諸事」の記録認定事業を命ぜられる。 天武天皇14年(685年)冠位を改訂し冠位四十八階に基づき浄大参を賜わる。朱鳥元年(686年)封戸100戸を加封された。この年の7月飛鳥浄御原宮の一部が延焼したがこれは忍壁皇子の宮殿が失火したからとも言われている。持統天皇10年(696年)高市皇子が没したのに伴い、天武天皇諸皇子中最年長となり皇族の代表的存在となる。持統朝においては彼の事績は伝わらないが、黒岩重吾は持統天皇に嫌われ、不遇をかこっていた所を藤原不比等の入知恵で甥の文武天皇擁立を支持し、ようやく政界復帰したものと主張している。 その後、文武天皇3年(700年)6月大宝律令選定を指揮し、翌年完成。大寶3年(703年)に知太政官事に就任する。慶雲2年(705年)5月薨去。 忍壁皇子を高松塚古墳の被葬者とする説がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「忍壁皇子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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