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志摩荘(しまのしょう)は、甲斐国の荘園。山梨県甲府市西部・甲斐市島上条一帯の荒川沿いに位置する。 == 志摩荘の立荘と展開 == 初見史料は鎌倉時代の建久7年(1196年)で、建久7年6月17日付源頼朝書状(松尾神社文書『鎌倉遺文』)に拠れば、現在の京都府京都市西京区嵐山宮町に鎮座する松尾神社が年貢を対捍する地頭がいる三箇所の荘園のひとつとして挙げられ、源頼朝に対して訴えられている〔秋山(2003)、p.154〕。頼朝はこれに対し、年貢定数を遵守するよう地頭に命じることを約束しており、同時期にはすでに立荘されていたと考えられている〔秋山(2003)、pp.154 - 155〕。なお、松尾神社との関係を示す史料は本史料以外には見られず立荘事情も不明であるが、天永元年(1110年)には甲斐国と関係の深い藤原忠実が松尾神社に封戸を寄進していることから、平安時代後期に忠実により立荘されたとも考えられている〔秋山(2003)、p.155〕。 なお、建久7年に年貢を対捍した地頭は不明であるが、志摩荘に拠った在地領主としては甲斐源氏の一族で小松氏・飯田氏・塩部氏の祖とされる武田有義や、安田義定の子忠義(志摩四郎)など平安後期から鎌倉時代初期の人物が考えられている〔秋山(2003)、p.158〕。 正応6年(1293年)3月17日付九条家文庫文書目録(『九条家文書』)に拠れば、一音院付属の九条家領として出現する〔秋山(2003)、p.155〕。同時期に志摩荘を除いて甲斐国における九条家領は見られず、九条教実長女で四条天皇皇后の宣仁門院から譲与されたと考えられている〔秋山(2003)、p.154〕。九条家には志摩荘に関係する文書が5・5合あったといわれ、訴訟事件のあった播磨国・田原荘に及ぶ量であることから、志摩荘においても訴訟事件のあった可能性が考えられている〔秋山(2003)、p.155〕。 一音院は藤原道家により創建され、藤原氏の氏寺である法性寺内の最勝金剛院内に所在する子院〔秋山(2003)、p.156〕。 建長2年(1250年)の九条道家惣処分状に拠れば、仁治3年(1242年)に死去した四条天皇供養のため宣仁門院領として甲斐国経田荘が立荘されており、九条家に残されている大量の文書は経田荘立荘に関係している可能性が考えられている〔秋山(2003)、p.155〕。経田荘の存在は以降の史料に見られなくなり、正和5年(1316年)7月27日一音院領目録(九条家文書)には宣仁門院領として志摩荘が登場することから、経田荘が松尾社領志摩荘を吸収し、志摩荘と改称され九条家領として伝領されたものと考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「志摩荘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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