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志賀 淑雄(しが よしお、1914年(大正3年)- 2005年 (平成17年)11月25日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。最終階級は海軍少佐。東京都出身。旧姓は四元。 == 経歴 == 大正3年、東京府(現・東京都)で四元賢助海軍少将の三男として生まれる。本籍は鹿児島。父の賢助は、海軍兵学校教官として山本五十六、豊田副武らを教えており、子供の教育にも厳格であった。山口中学を経て、1931年(昭和6年)4月海軍兵学校62期に入学。同期に伏見宮博英王がおり、伏見宮が掃除の時間に列に割り込んだ際、志賀はそれを注意してバケツを蹴飛ばした。その件が殴ったという噂に飛躍して多少の摩擦も生じたが、後に父の訃報を受けた志賀に帰宅許可が出たのは伏見宮の計らいであった〔『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p20-21〕。1934年(昭和9年)5月27日、海軍記念日に行われた横空分隊長源田実大尉が率いる特殊編隊飛行(源田サーカス)の公演を同期生と見学してパイロットの道を決心した〔『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p21〕。1935年(昭和10年)11月17日、海軍兵学校を卒業、少尉候補生として練習航海に出発。その後、遠洋航海(オーストラリア~ハワイ)を行う。1936年(昭和11年)2月26日、2・26事件に遭遇した。海軍砲術学校生徒だった志賀は機銃小隊長を命じられ海軍省の警備にあたった〔『零戦 最後の証言』光人社NF文庫 pp.21f〕。4月、海軍少尉任官。12月、第28期海軍飛行学生を拝命、霞ヶ浦海軍航空隊付。1937年(昭和12年)9月佐伯海軍航空隊付、戦闘機専修。 1938年(昭和13年)1月、南京の第13航空隊着任。日中戦争に参加。2月25日、第二中隊長として中攻機35機の護衛任務に従事。この初陣で96式艦戦を操縦して、I-15戦闘機を撃墜した。 8月、横須賀航空隊着任(分隊士)。12月、空母赤城に乗組。1939年(昭和14年)11月、大分航空隊分隊長。同月海軍大尉に進級。1940年(昭和15年)9月、婿養子として婚姻、志賀に改姓。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「志賀淑雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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