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応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領の細川勝元と室町幕府侍所所司(頭人)の山名持豊(出家して山名宗全)ら有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった〔応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来の説である。しかし応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応維持されていたと考えられている。このため、明応の政変(明応2年(1493年))以後を戦国時代とするのが現在では有力な説の一つとなっている。〕。十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した〔キーン、P83。〕。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。 == 背景 == === 時代背景 === 鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食されつつあった。室町時代の権力者であった守護大名も例外ではなく、その領国支配は万全ではなかった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は3代将軍足利義満と6代将軍足利義教の時を除いて成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。 こうした環境は当時、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「応仁の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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