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誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん、誉田山古墳)は、大阪府羽曳野市誉田にある前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。 宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和53年)に国の史跡に指定されている〔堀江門也「応神天皇陵古墳外濠外堤」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第2巻 原始2』同朋舎出版 1991年 248ページ〕。 名称は「応神天皇陵」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。 2008年9月26日、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を含む古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加された。歴史学や考古学の一部学会には、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くものとして歓迎する声がある。 ==古墳の概要== 5世紀初頭の築造と考えられている。立地条件は、必ずしもよいとは云えない。それは、土質の安定した段丘と不安定な氾濫源という異質の土地にまたがって墳丘を造営しているためという。 また、造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように造ったため、周濠と内堤が歪んでいる。なお、前方部の一部が崩れているのは734年、及び1510年にこの地で内陸直下型の大地震があったためと考えられており、前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層の生駒断層帯が走っている(地質調査で付近での活断層の存在が判明し、誉田御廟山古墳の一部を通っていることが推定された。また、地質調査により活断層が前回活動したと推定されている年代と、大地震があったと記録された年が一致)。 宮内庁が管理しているため、立ち入って学術調査が出来ないため確かなことが分かっていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「誉田御廟山古墳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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