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応蘭芳 : ミニ英和和英辞書
応蘭芳[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [らん]
 (n) orchid

応蘭芳 ( リダイレクト:應蘭芳 ) : ウィキペディア日本語版
應蘭芳[おう らんふぁん]

應 蘭芳(おう らんふぁん、1938年(昭和13年)3月9日 - )は、日本の女優歌手。旧芸名は応 蘭芳。本名は応 仲奇。日本名は三瀬 滋子(さんのせ しげこ)だったが、1981年に結婚し近藤 滋子になった。
== 来歴 ==
イギリス・ロンドン生まれ。父親は英国籍の中国人で、母親は日本人。
生後すぐに満州国に移住し、満州国籍となる。11歳の時に母親と二人で舞鶴へと引き揚げた〔。
1957年(昭和32年)、日本国籍がなかったため就職できず、「優勝すると女優になれる」という「井の頭公園カーニバル」のミスコンテストに応募し優勝する。
1958年(昭和33年)、ミスコンテストの結果を受け、東映ニューフェイスの第5期に合格。同期には梅宮辰夫八代万智子高島新太郎小嶋一郎滝川潤がおり、東映へ入社。その後、俳優座養成所にも12期生として入所。同期には中村敦夫加藤剛山本圭長山藍子樫山文枝がいる。東映には2年弱、俳優座には3年ほど在籍し、その後青年芸術劇場に所属〔。
1959年(昭和34年)、日本名三瀬 滋子で映画『素晴らしき娘たち』、『空港の魔女』、『スピード狂時代命を賭けて』に出演。 
1964年(昭和39年)、青年芸術劇場(青芸)第6回発表劇『袴垂れはどこだ』に出演、当時のパンフも芸名は三瀬 滋子でクレジットされているが、劇の原作の一つである中国小説の訳者表記部分には本名応 仲奇でクレジットされている。
1966年(昭和41年)、『マグマ大使』(ピープロフジテレビ)に「モル」役で出演。劇中では特技のスキューバ潜水も披露している。
1968年(昭和43年)、青芸の解散に伴い第一協団へ移籍し、芸名を應蘭芳に変える〔。『女性自身』(光文社)3月25日号のインタビュー記事で、「私、あのときはいつも失神するの」と、当時の世相としては衝撃的な赤裸々な発言を行い、一躍「失神女優」と呼ばれることとなる。
同年、『11PM』(日本テレビ制作版)でホステス役を務める。また、歌手としてビクターレコードから『渚の歓喜(エクスタシー)』(A面は『火遊びのブルース』)が発売され、そのセクシーな内容から「失神ソング」と呼ばれた。
1969年(昭和44年)、『プレイガール』(東映東京12チャンネル)に、初代メンバーとして出演。
同年、ビクターレコードより「失神ソング」第二弾、『痛い痛い痛いのよ』が発売されるが、当時としてはあまりに過激な歌詞内容のため、『渚の歓喜』と併せて「放送禁止歌曲」にされてしまった。
現在は舞台、芝居を中心に活躍。又長いキャリアを持つスクーバーダイビングやスカイダイビングなどで世界を回った、それらの体験を生かした体験談の講演も多い。他にテレビ番組・イベント企画等のキャリアも長く、テレビ演出、制作会社(株)
コン・エンタープライズを中心に活躍。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「應蘭芳」の詳細全文を読む




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