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(n,vs) prudence・ 思慮 : [しりょ] (n,vs) prudence
知恵(ちえ、、 プロネーシス, , , )は、道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。特に「智慧」は、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。「智」は相対世界に向かう働き、「慧」は悟りを導く精神作用の意〔大辞泉 ち‐え〔‐ヱ〕【知恵/×智×慧】。 〕。 知恵と知識の関係については、様々な考え方がある。知識を沢山持っていても、知恵を著しく欠いている人もいる、また、知識はさほど多くなくても、立派に知恵を持っている人もいる、などとも言われる。 互いに知恵を競い合うことを、「知恵競(くら)べ」(賢(かしこ)争い)という〔『広辞苑』 第六版 岩波新書 一部参考。〕。 == 各文化における知恵 == 古代ギリシャの哲学において、知恵もひとつの重要なテーマとして論じられた。例えば「徳」と日本語では訳されているものの中に、これに合致する部分も多い。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第6巻述べられているように、実践的な知恵・知慮を「プロネーシス」(phronesis, フロネシス)、完成・完結した智慧を「ソピア」(sophia, ソフィア)として、両者を区別している。 老子の第十八章には「知恵出でて大偽あり」という表現が見られ、かつて人々が素朴であった時代には、人々は自然に従って生きており平和だったが、後に人間の知恵が進んで、不自然なこと人為的なことが行われたので、大きな偽り(大偽)が生じ、世の中が乱れてしまった、と述べられている。 旧約聖書には、アダムとイブが、「知恵の実」(知識の実)を食べて性的羞恥心が芽生えた、との描写が見られる。その一方でその「知恵の実」が原因でアダムとイブは楽園を追われた、という描写も見られる。 大乗仏教では、「論書」(アビダルマ)に表現されているような分析的議論に明け暮れる説一切有部を中心とする部派仏教を批判する形で、『般若経』や龍樹・中観派によって、分別的な知恵(ジュニャーナ, jñāna, 若那, 智)を超えた無分別の智慧(プラジュニャー, prajñā, 般若, 慧)が釈迦の悟りの境地として賞揚され、普及された。したがって、大乗仏教では両者を区別するのが一般的である〔プラジュニャーとは - コトバンク/世界大百科事典〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「知恵」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Wisdom 」があります。
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