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『恋風五十三次』(こいかぜごじゅうさんつぎ)は、1952年(昭和27年)製作・公開、伊丹万作脚本、中川信夫監督による日本の長篇劇映画である〔''恋風五十三次'' 、日本映画データベース、2013年1月20日閲覧。〕〔''恋風五十三次''、 日本映画情報システム、文化庁、2013年1月20日閲覧。〕〔''恋風五十三次''、 映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年1月20日閲覧。〕〔''恋風五十三次'' 、KINENOTE、2013年1月20日閲覧。〕〔''恋風五十三次'' 、allcinema, 2013年1月20日閲覧。〕。シナリオ完成時の原題は『東海道膝栗毛』(とうかいどうひざくりげ)、伊丹の没後に初めて映画化された作品である〔〔。 == 略歴・概要 == 本作のシナリオは、依田義賢の原作を得て伊丹万作(1900年 - 1946年)が脚色したものであり、伊丹の最後の監督作『巨人傳』(製作東宝映画東京撮影所、1938年)の完成以降、結核によって絶対安静の病床にあった伊丹〔、2013年1月20日閲覧。〕が、生前「最後にものした脚本」とされる〔〔。シナリオ『東海道膝栗毛』は、1945年(昭和20年)に伊丹が取り組んだものであり〔冨士田, p.235.〕、「病状の一進一退と呼吸を合わせるようにして執筆された」という〔米田, p.212.〕。もともとは大映が同年7月に撮影すべく企画したものであった〔米田, p.225.〕。 伊丹は、1946年(昭和21年)9月21日に亡くなっており、本作のシナリオ『東海道膝栗毛』は生前に実現することはなく、没後6年を経て初めて映画化、公開されることとなった〔〔〔〔。伊丹の生前実現しなかった作品にはほかに、『手をつなぐ子等』(監督稲垣浩、1948年)、『俺は用心棒』(シナリオ原題『昔を今に』、監督同、1950年)〔米田, p.325.〕、『不惜身命』(原作山本有三、1942年執筆、未映画化)、『木綿太平記』(原作恩田木工、1943年執筆、同)がある〔〔伊丹, p.327.〕。本作は、伊丹の没後に映画化された作品としては『手をつなぐ子等』『俺は用心棒』に次ぐ3作目であり、脚本専念後に映画化された作品としては生前の『無法松の一生』(監督稲垣浩、1943年)を含めて4作目である〔。 本作の製作は、本作公開の前月に「山田プロダクション」として東映京都撮影所と提携し、花柳小菊主演、佐伯清監督の『お洒落狂女』の製作・音楽を務めた、作曲家の山田栄一がひきつづき音楽ともども務めている〔、2013年1月20日閲覧。〕〔お洒落狂女 、日本映画データベース、2013年1月20日閲覧。〕。佐伯清は、かつて伊丹が脚色・監督した『渡鳥木曾土産』(1934年)に原作を採用され、伊丹の次作『武道大鑑』(1934年)から遺作の『巨人傳』までの10本の助監督を務めた人物である〔今村ほか、p.157.〕。企画にクレジットされたプロデューサーの西原孝は、日活京都撮影所の助監督出身で、伊丹の旧制中学校時代の先輩である伊藤大輔に師事し、伊藤の監督作『御誂次郎吉格子』(1931年)のチーフ助監督を務めたのちの1934年(昭和9年)に映画監督としてデビューしており、伊丹が新興キネマに在籍した1935年(昭和10年)の時期には、おなじ京都撮影所で監督を務めていた人物である〔、2013年1月20日閲覧。〕。新興キネマ京都撮影所は、当時そして現在の東映京都撮影所である。本作の監督を務めた中川信夫は、かつて青年期に伊丹を敬愛するあまり、伊丹邸の玄関から「伊丹万作」の表札を剥がし、盗んだ人物である〔中川, p.71-73.〕。 本作は、1802年(享和2年) - 1814年(文化11年)に発表された十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に想を得たもので、主人公の弥次郎兵衛・喜多八をそれぞれ河津清三郎・伊藤雄之助が演じ、江戸を出て伊勢神宮をめざす東海道をたどる道中を描く、明朗なロードムービーである〔〔。舞台となるのは、神奈川宿(現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町)、大磯宿(現在の同県中郡大磯町)、小田原宿(現在の同県小田原市)等である〔〔〔。河津・伊藤は、前月公開、前述の山田プロ作品『お洒落狂女』からひきつづきの出演である〔。本作で「駕籠の客」として登場する上方噺家の二代目桂春團治は、高村将嗣(高村正次)の宝プロダクション製作、加藤泰監督により本作の翌月に東映が配給・公開した『清水港は鬼より怖い』で清水次郎長を演じているが〔、2013年1月20日閲覧。〕、翌1953年(昭和28年)2月25日に死去しており〔、2013年1月20日閲覧。〕、本作は最晩年の出演作である〔。父を捜す巡礼娘つやを演じた本作のヒロイン、若山セツ子は公開当時満22歳であり、伊丹の亡くなった1946年に東宝ニューフェース第1期生として三船敏郎、久我美子らと東宝に満17歳で入社した人物であり、当時も東映専属女優ではなかった〔、2013年1月20日閲覧。〕。 2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリントを所蔵していない〔所蔵映画フィルム検索システム 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月20日閲覧。〕。ビデオグラムについてはかつて発売された形跡がなく〔、東映チャンネルは、本作を放映した形跡がない〔東映チャンネル 、公式ウェブサイト、2013年1月20日閲覧。〕。『映画監督中川信夫』刊行時に、当時の池袋文芸座地下で行われた特集上映で、個人蔵のプリントで上映されたのち四半世紀間は公開された形跡はなく、事実上、観ることがほとんど不可能にちかい作品である。本作の脚本については、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)には収録されていない〔伊丹, p.1.(目次)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「恋風五十三次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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