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恵那郡(えなぐん)は、美濃国・岐阜県にあった郡。 *現在の岐阜県恵那市と中津川市の大部分及び岐阜県瑞浪市の陶地区と愛知県豊田市の浅谷町と須渕町。 *奈良時代には現在の長野県木曽郡の全域も含んでいた。 *明治初期の恵那郡は、岐阜県の第十二大区とされ63箇村があったが、11の小区に纏められた。 *美濃国内で最大の面積を有する郡であった。 2004年(平成16年)10月25日以下の4町1村と恵那市が合併し、(新)恵那市となった。 * 岩村町(いわむらちょう) * 山岡町(やまおかちょう) * 明智町(あけちちょう) * 上矢作町(かみやはぎちょう) * 串原村(くしはらむら) 消滅直前となる2005年(平成17年)2月12日の時点で以下の3町3村を含んでいた。 2005年2月13日、下記の全町村が中津川市に編入されたため恵那郡は消滅した。 * 坂下町(さかしたちょう) * 付知町(つけちちょう) * 福岡町(ふくおかちょう) * 加子母村(かしもむら) * 川上村(かわうえむら) * 蛭川村(ひるかわむら) == 古代の地域範囲 == *702年(大宝2年)に「始めて美濃国の岐蘇山道を開く」と続日本紀に記されているのが岐蘇(木曽)の史料上の初見であるが、このとき木曽路を開通させたのは美濃国の役人たちであったため、木曾谷は美濃国に含まれた。はじめ美濃国恵那郡に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。9世紀後半の、貞観年中の859~876年に天皇の貞観年間には勅命により、朝廷より藤原正範と靭負直継雄が派遣され、両国の国司と現地に臨み、このときの正範らの報告によると、もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曾谷の村落)は美濃国恵奈郡絵上郷の地域にあり、和銅6年(713)に美濃守笠朝臣麻呂らが、ここに吉蘇路を開通させた。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がないという。それでこの報告にしたがって、木曾谷を美濃国と決めた。』、すなわち古代には木曽は恵那郡に属していたのである。 *そして元慶3年(879年)9月に懸坂上岑(木祖村と旧奈川村との境界にある境峠)と鳥居峠を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、平安時代中期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。 *平安時代中期の拾遺和歌集には、源頼光の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ』という詩がある。 *懸坂上岑とは、木曽川の水源から北にある境峠のことであり、当時は、境峠を越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである。〔恵那郡史 1926年〕。平安時代中期の和名類聚抄では恵奈郡六郷に淡気(たむけ)、安岐(あぎ)、絵上(えなのかみ)、絵下(えなのしも)、坂本(さかもと)、竹折(たけおり)が挙げられており、この頃の郡域は現在の恵那市(飯地を除く)、中津川市(加子母北部を除く)と瑞浪市の陶地区と現在の長野県木曽郡全域であったと考えられる〔日本歴史地名大系台二一巻『岐阜の地名』平凡社地方資料センター 平凡社 1993年〕。また延喜式には中川神社、坂本神社、恵那神社の三社が記されている。 *信濃地名考という文献には、木曽が信濃国に移管されたのは、平安時代の延喜年間(901~923年) と記されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「恵那郡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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