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悲田処(ひでんしょ)とは、平安時代初期の天長10(833年)、武蔵国多摩郡と入間郡の境に設けられた布施屋。飢えや病気に苦しむ旅行者の一時救護所・宿泊所としての役割を果たした。 当初は国府によるものであったが、後に国営化されたとみられている。 == 設置とその経緯 == 悲田処設置についての公的記録は、六国史の一つである『続日本後紀』天長10(833)年5月11日條に、 武藏國言。管内曠遠。行路多難。公私行旅。飢病者衆。仍於多磨入間兩郡界置悲田處。建屋五宇。介從五位下當宗宿禰家主以下。少目從七位上大丘秋主已上六箇人。各割公廨。以備糊口之資。須附帳出擧。以其息利充用。相承受領。輪轉不斷。許之。 とあるのがそれである。これによれば、武蔵国府が公私を問わず旅行者が飢えや病に苦しむ者が多いのを見かねて布施屋の設置を発案、多摩郡と入間郡の境に建物5棟からなる施設「悲田処」を造ったということになる。 運営主体に関しては、運営費について介の当宗宿禰家主(あてむねのすくねいえぬし)から少目(しょうさかん)の大丘秋主(おおおかのあきぬし)まで6人の扶持を割いてあて、さらにこれを出挙として貸し付けその利子を利用する予定である、と書かれているので、実質的に国府の運営であったと思われる。 なお、この地域は当時武蔵国内で東京湾側、現在の東京23区内を通っている官道の東海道と直接関係のない地域であるが、この地は宝亀2(771年)に武蔵国が東山道から東海道へ移管されるまで、上野国および下野国から真南に武蔵国府へ至る東山道の支道・東山道武蔵路が通っていた場所であった。東山道武蔵路は東海道移管により官道ではなくなったが、廃道になったわけではなくその後も脇街道として一定の交通量があったと見られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「悲田処」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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