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惟成親王(これなりしんのう)は、南北朝時代から室町時代にかけての南朝の皇族・禅僧。後村上天皇第三皇子であり、長慶天皇と後亀山天皇の弟と推定される。官位は二品・中務卿。後に出家して、道号は梅隠(ばいいん)、法諱は祐常(ゆうじょう)という。近年の小川剛生の研究によれば、南朝末期に後亀山天皇の東宮(皇太弟)に立ち、南北朝合一後に護聖院宮家を興して、その初代親王になったとする説が有力である〔小川剛生 「伏見殿をめぐる人々 ―『看聞日記』の人名考証―」(森正人編 『伏見宮文化圏の研究 ―学芸の享受と創造の場として―』 文部省科学研究費補助金研究成果報告書、2000年)〕。護聖院宮の項目も参照のこと。 == 経歴 == 親王宣下を蒙り、文中3年/応安7年(1374年)三品に叙されたというが〔『南方紀伝』〕、具体的な経歴は不明。天授元年/永和元年(1375年)には大宰帥、弘和元年/永徳元年(1381年)には式部卿であり、程なく二品中務卿に至った。元中9年/明徳3年(1392年)南北朝合一の際に帰洛した南朝君臣らの中に見える「三宮、御鎧直垂」〔『南山御出次第』〕とは、惟成親王のことであろう。応永10年(1403年)頃までに出家し〔応永10年頃に在庵普在の弟子の手で編まれた漢詩集『雲巣集』に作者として「梅隠」の名が見える。〕、臨済宗法燈派に属して梅隠祐常と号する。初め鎌倉へ下向して書記の職を掌り(寿福寺か)、後に上洛して建仁寺に一時在籍したが、やがて美濃へ下向して霊薬山正法寺の信中自敬に師事し、寺内に「樵斎」を構えて隠居した〔『梅花無尽蔵』第6-59「樵斎記」。「樵斎」とは、樵のように世俗を離れた隠者の庵室という意の名称。〕。応永30年(1423年)3月3日に薨去〔富岡本『新葉和歌集』奥書〕。 南朝歌壇では、自邸で探題歌会を主催した他、天授元年(1375年)の『五十番歌合』『五百番歌合』に出詠した。『新葉和歌集』には6首が入集する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「惟成親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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