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愛新覚羅 善耆(あいしんかくら ぜんき、シャンチー、1866年 - 1922年)は、清の皇族。太祖ヌルハチの孫ホーゲに始まる粛親王を継ぐ。謚は忠。二等鎮国将軍を経て、粛親王の位を継ぎ、立憲君主制の実現を主張した。鑲白旗人。 ==人物・生涯== 1866年、北京に生まれる。 1898年、父の死により粛親王の位を継いだ〔粛親王善耆とは コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典)より〕。 1900年、義和団の乱に際し、御前大臣として光緒帝、西太后の西安逃避に随行。義和団の乱から辛亥革命勃発までの10年間のいわゆる光緒新政時期に民政部尚書・民政大臣・理藩大臣を歴任し、近代化改革を促進した。日本より招聘した川島浪速を北京警務学堂の創設にあたらせるなど親日家であった。立憲制への移行を支持し、革命派に対しても理解があり、開明皇族と知られる。摂政王醇親王暗殺未遂事件で逮捕された汪兆銘の人物を見込み、汪の助命をしたのは粛親王であるといわれている。 1911年の辛亥革命勃発時には、恭親王溥偉とともに宣統帝の退位に反対した。1912年2月初め、清朝皇帝の退位が避けられなくなると、川島浪速らの手引きによって日本の租借地旅順へ逃れた。清朝滅亡後は、復辟をめざす清朝遺臣の宗社党の中心人物として、蒙古旗人升允らとともに活動を行っている。 1912年の第1次満蒙独立運動では日本の参謀本部と、いわゆる大陸浪人の後押しで挙兵を準備をするも、日本政府の命令で計画は中止された。 1916年の第2次満蒙独立運動では袁世凱の帝政に反対する大隈重信内閣の方針のもと、男爵大倉喜八郎等の資金援助を受け、宣統帝復辟のための勤王軍を組織し、内蒙古のバボージャブ(巴布扎布)と結んで挙兵した。しかし袁世凱の急死により大隈内閣の方針が変更され、援助は打ち切られ、満蒙地方軍の反撃を受けて巴布扎布が戦死するという事態に及んで、再び失敗した。 1922年に旅順で死去。溥儀から忠の謚を贈られ、粛忠親王と称される。北京郊外架松の粛親王家墓所に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「愛新覚羅善耆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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