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愛新覚羅 顕琦(あいしんかくら けんき、1918年9月14日 - 2014年5月26日)は、清朝八大親王の一人、第10代粛親王善耆の末娘(第十七女)として旅順に生まれた人物である。天津郊外在住。最後の生存王女であった。旧字体では愛新覺羅顯琦。簡体字:、(アイシンジュエルオ・シエンチー)。中国名は金 黙玉。 == 人物・来歴 == 1918年(大正7年)9月14日、第四側室の末子(第17女)として旅順(現在の遼寧省大連市)で生まれる〔顕琦、p.17.〕。同側室が生んだ子は男王6人、女王3人で、母を同じくする2人の姉の1人が、第十四王女「男装の麗人」こと川島芳子であった〔。父は、1922年(大正11年)3月15日に旅順で死去している。 旅順博物館や旅順ヤマトホテル近くにある旅順高等女学校に入学、長春高等女学校への転校を経て、女子学習院(現・学習院女子高等科)へ留学する。同学卒業後の1940年(昭和15年)、日本女子大学英語科へ進学する。翌1941年(昭和16年)、日中戦争が激しくなったため帰国する。 1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終結し、1949年(昭和24年)の中華人民共和国建国後、1956年(昭和31年)、北京編訳社に入社、翻訳関係の業務を行う。このころ結婚し、北京で親戚の子どもたちの面倒を見ながら四川料理屋を経営する。 1958年(昭和33年)2月、イデオロギー闘争に巻き込まれ右派勢力として密告により逮捕される。その後15年の獄中生活。さらに7年間の強制労働を経て、毛沢東の死により終結した文化大革命後に釈放。名誉を回復されて博物館職員として社会復帰。1996年に日本政府の支援で河北省に日本語学校を設立、日本各地を訪問し、講演活動等を通じて日本語教育へ力を注ぐ。 2014年(平成26年)5月26日、北京の病院で死去〔愛新覚羅顕キさん死去 中国清朝の粛親王善耆の末子 朝日新聞 2014年5月26日〕。95歳没。死の数ヶ月前から入院していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「愛新覚羅顕キ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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