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慕容 (ぼよう こう、拼音:Mùróng Huǎng)は、五胡十六国時代の前燕の初代王。鮮卑慕容部の大人(たいじん:部族長)で、慕容廆の三男。兄に慕容翰、弟に慕容仁、慕容昭、慕容評、慕容幼などがいる。 == 生涯 == 昌黎郡棘城県(現在の遼寧省義県の西方)の人。顔は龍のようで板のような歯をしていた。身長は七尺八寸(約179cm)。勇ましくて強く権謀術数に長けており、経学が高く、天文は優れていた。 建武の初め、冠軍将軍・左賢王を拝命し、望平侯に封じられる。 段末波が段部の大人になると、慕容廆は慕容皝に命じて段部を襲撃させた。 太興4年(321年)12月、父の慕容廆が遼東公となると、その世子に立てられた。 後趙の石勒は、宇文部大人乞得亀を差し向けて慕容部を攻めるが、慕容廆は慕容皝を派遣してこれを防いだ。 太寧の末年、平北将軍を拝命、朝鮮公に封ぜられた。 咸和8年(333年)5月、慕容廆が病没し、慕容皝は位を継いで大人となった。慕容皝は以前から庶兄の慕容翰を驍武で雄才があって忌まわしく思っており、弟の慕容仁と慕容昭には父からの寵愛があって不平に感じていたので、慕容皝は3人の兄弟を受け入れなかった。そこで庶兄の慕容翰は段遼の所へ出奔し、弟の慕容仁と慕容昭は慕容皝を廃すべく挙兵、ここに慕容部の内乱が起きた。慕容昭はすぐに殺され、慕容仁は自ら車騎将軍・平州刺史・遼東公と称し、宇文部と段部を味方につけた。 咸和9年(334年)、段遼は徒河を襲撃、慕容皝の将の張萌は反撃しこれを破った。次は段遼の弟段蘭と慕容翰が柳城を襲撃、都尉の石琮はこれを撃破した。しばらくして、段蘭、慕容翰がふたたび柳城を包囲、慕容皝は寧遠の慕容汗及び封弈等を派遣して包囲を解くが、慕容汗が命令を無視したために大敗し、兵の半分を失った。またしばらくして、段蘭が攻めてきたので、今度は石琮がこれを撃破した。この年、東晋によって鎮軍大将軍・平州刺史・大単于を拝命、遼東公に封ぜられた。 咸康の初め、封弈を遣わして宇文別部の渉奕を襲い大破した。この年、慕容皝は慕容仁を捕らえて処刑した。 咸康3年(337年)、慕容皝は自ら燕王と称し、前燕を建てた。封弈を国相、韓寿を司馬とし、裴開、陽騖、王寓、李洪、杜群、宋該、劉瞻、石琮、皇甫真、陽協、宋晃、平熙、張泓等を列卿将帥とした。その妻段氏を王后とし、世子の慕容儁を太子とした。 咸康4年(338年)、後趙の石虎が数十万の兵を率いて来攻した。慕容皝は四男の慕容恪を遣わして撃退し、東晋より征北大将軍・幽州牧に任ぜられる。 咸康6年(340年)2月、石虎の将軍石成と遼西で戦い、勝利する。 咸康7年(341年)2月、東晋より燕王の章璽を持つことを許された。すなわち、自称であった燕王の地位を公認された。また、陽裕らに竜城(同遼寧省朝陽県)を築かせて、新たな都とした。 咸康8年(342年)10月、庶兄の慕容翰、五男の慕容垂、長史の王寓等を遣わして高句麗征伐に赴いた。慕容翰は高句麗王の高釗(故国原王)を敗走させ、勝ちに乗って丸都城(現在の吉林省集安西北)に入城し、王墓を発き、釗の母妻珍宝を奪い、城に火を放って帰還した。 建元元年(343年)6月、石虎は慕容皝討伐を試みるが、敗北した。 建元2年(344年)、昌黎で宇文部の逸豆帰を撃破し、宇文部を滅ぼした。 永和3年(347年)5月、慕容皝は昇進して安北将軍となる。 永和4年(348年)9月、狩猟していた時に落馬をして頭を強打したのが原因で、そのまま逝去した。享年52。次男の慕容儁(烈祖)が後を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「慕容コウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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