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慕容儁[ぼよう しゅん]
慕容 儁(ぼよう しゅん、拼音:Mùróng Juàn / Jùn)は、五胡十六国時代の前燕の第2代君主。当初は燕王を自称したが(在位:349年 - 352年)、後に皇帝を称した(在位:352年 - 360年)。太祖慕容皝の次男で慕容恪、慕容垂、慕容納、慕容徳の兄。 == 生涯 == 永和4年(348年)の父の卒去に伴い燕王を称し、翌年1月春秋列国故事に依って元年を称した。4月に東晋の穆帝の使者の陳沈は慕容儁に使持節、侍中、大都督、河北諸軍事の都督、幽州・冀州・并州・平州4州の牧、大将軍、大単于、燕王を下賜し、正式に燕王となった。 さらに同年、後趙の石虎が死去して後趙内部で皇位継承争いが起こり、事実上国内が崩壊すると、永和6年(350年)、この好機を見逃さなかった慕容儁は後趙に侵攻し薊(現在の北京に当たる領域)を奪い、そこを前燕の都とした。翌年、冉閔が後趙を滅ぼすと慕容儁は冉魏に侵攻、永和8年(352年)9月には冉魏を滅ぼし、大燕皇帝として即位し、元璽元年とした。翌年11月、冉魏の都だった鄴に遷都している。青州で斉王を名乗る段龕を元璽5年(356年)末に数年の戦闘すえ平定した。 しかし聡明で知られた皇太子の慕容曄が早世したため、光寿元年(357年)1月に止むなく三男の慕容暐を太子に立てた。翌年6月に并州で半独立状態だった後趙残党を滅ぼし、明年冬に歩卒150万を鄴に集結させる計画を立てた。光寿3年(359年)鄴の治安が集結させた兵士たちによって悪化した状況で病気が悪化し慕容暐の若さと力量を案じて弟の慕容恪を後見人した。光寿4年(360年)1月に42歳で崩御、慕容暐が皇位を継承した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「慕容儁」の詳細全文を読む
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