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慕容 垂(ぼよう すい、拼音:Mùróng Chuí)は、五胡十六国時代の後燕の創建者。 == 生涯 == === 前燕の部将 === 鮮卑慕容部の出身。前燕の慕容皝の第5子として生まれる〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P103〕。兄に慕容儁、慕容恪、弟に慕容納、慕容徳など。初名は「覇」だったが、ある日落馬して歯を折る大怪我をし、長兄の慕容儁によって「𡙇」(偏が垂、旁が夬、「缺」と同字、常用漢字では「欠」)と改名させられた。その後さらに旁の「夬」を取り除いて「垂」と変えられた。 父からは寵愛され、342年の高句麗、344年の宇文逸豆帰討伐に従軍、348年に父が亡くなり兄が即位した後は後趙を滅ぼした冉閔が建てた冉魏討伐にも参戦、戦功により352年に呉王に任命され、侍中・右禁将軍・録留台事にも任じられ、征南将軍・荊州・兗州牧も兼ねて南境に配置された。360年に兄が死去、甥の慕容暐が即位した時は慕容暐の補佐役になった次兄慕容恪に重用され、365年に慕容恪と従軍して東晋の桓温に奪われていた洛陽を奪還した。 369年4月に桓温の東晋軍が3度目の北伐を開始し〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P75〕、前燕軍は敗退して黄河北岸の枋頭(現在の河南省滑県)まで退却し、前燕中枢部では龍城への遷都も検討された〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P76〕。これに対して慕容垂は自ら軍を率いて桓温と対戦し、前秦の援軍が到着する前に桓温を破って大勝、名声を上げて評価が高まった〔。 しかし、それが原因で逆に叔父で太傅の慕容評と皇太后の可足渾氏に恨まれ、排除の動きがあったため、慕容垂は前秦の苻堅の下に亡命した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「慕容垂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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