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慕容 宝(ぼよう ほう、拼音:Mùróng Bǎo)は、五胡十六国時代の後燕の第2代皇帝。 == 生涯 == 後燕の初代皇帝慕容垂の第4子として生まれる。 建興10年(395年)11月、北魏の拓跋珪と戦い、黍穀にて大敗する。 建興11年(396年)3月、慕容垂は平城を攻略し陥落させる。4月、父慕容垂が清河王会を皇太孫に指定して逝去すると、慕容宝はそのあとを継いで即位し、永康と改元した。しかし、長楽王盛は、同年の異母弟の清河王会が皇太孫になったことを恥辱に感じて、末弟の策を太子にすべく進言して、これが実現してしまった。 永康2年(397年)3月、慕容宝は薊にて北魏軍に敗れる。将軍の慕容詳は中山にて帝位を僭称、慕容宝は黄龍に逃れた。祖父から皇太孫に定められたはずの子の清河王会は、龍城を守っていたが、父の危機を聞いて駆けつけた。しかし、慕容宝は廃嫡した子の慕容会の兵を奪って、弟の遼西王農らに分け与えてしまった。慕容会はこれに怒り、慕容宝らを攻撃。慕容宝は龍城まで逃げたが、慕容会に包囲された。侍禦郎の高雲が慕容会を破り、慕容会は中山に逃げた。これによって慕容宝は高雲を養子とし、夕陽公に封じた。のちに慕容会は慕容詳に殺された。9月、慕容宝の兄である将軍慕容麟は慕容詳を中山で斬り、自ら帝位についた。10月、慕容麟は北魏軍に敗れた。 永康3年(398年)5月、配下の蘭汗は慕容宝を殺し自ら大将軍・昌黎王と称した。7月、慕容宝の庶長子の盛は蘭汗を斬り、長楽王を僭称、皇帝位を代行した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「慕容宝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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