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慕容永[ぼよう えい]
慕容 永(ぼよう えい)は、五胡十六国時代の西燕の第7代(最後の)皇帝。 == 生涯 == 前燕の創始者慕容皝の弟慕容運の孫とされるが、父は不明。建熙11年(370年)に前燕が前秦によって滅亡させられると、多くの鮮卑慕容部族と共に関中に遷り、長安に居住していた。しかし生活は困窮し、妻子と共に市で靴を販売して生計を立てていたと伝えられる。 建平元年(386年)の政変で慕容永は慕容瑤を殺害して慕容忠を皇帝に擁立、自らは太尉、守尚書令となり、河東公に封じられた。数ヶ月後、慕容忠が将軍の刁雲により殺害されると、慕容永は大都督、大将軍、大単于、雍秦梁涼四州牧、河東王として後燕の成武帝慕容垂に一時帰順した。さらに数ヵ月後、慕容永は皇帝として自立、中興と改元、ここに西燕が復活する。同年、南下した前秦の苻丕を撃破した(襄陵の戦い)。 中興8年(393年)、後燕による西燕攻撃が行われ、翌中興9年(394年)に慕容永は殺害されて西燕は滅亡した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「慕容永」の詳細全文を読む
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