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慕容 熙(ぼよう き、拼音:Mùróng Xī)は、五胡十六国時代の後燕の第4代皇帝。 == 生涯 == 慕容垂の少子として生まれる。 光始元年(401年)、甥の慕容盛が殺されると、群臣は慕容盛の伯母の丁氏とともに協議し、河間公の慕容熙を立てることにした。そして、慕容盛の太子の慕容定を廃して殺し、慕容熙は皇帝に即位し、年号を光始とした。 即位後は絢爛豪華な龍騰苑を築くなど、妻の苻訓英とともに財政を傾かせていった。 建始元年(407年)、慕容熙は慕容宝の諸子を殺し、改年して建始とした。苻訓英が死ぬと、いい加減な法令を出し、遂に中衛将軍の馮跋兄弟に殺され、事実上後燕は滅びた。 跡を継いだ恵懿帝慕容雲以降は、北燕という。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「慕容熙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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