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慧灯大師 : ミニ英和和英辞書
慧灯大師[し]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひ]
 【名詞】 1. (1) light 2. lamp 3. lamplight
大師 : [たいし, だいし]
 【名詞】 1. (gen) (Buddh) great teacher 2. saint 
: [し]
 【名詞】 1. (1) teacher 2. master 3. one's mentor 4. (2) the Reverend

慧灯大師 ( リダイレクト:蓮如 ) : ウィキペディア日本語版
蓮如[れんにょ]

蓮如(れんにょ)は、室町時代浄土真宗本願寺第8世。本願寺中興の祖。同宗旨〔真宗十派の内、本願寺派・大谷派のみ蓮如を歴代とする。〕では、「蓮如上人」と尊称される。諱は兼壽。院号は信證院。明治15年(1882年)に、明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「」とで表記される場合がある。真宗大谷派では「如」と表記するのが正式である〔如…大谷派では、「」の字は「」(二点之繞)を用いて表記するのが正式であるため、「如」と表記するのが正式である。〕 。
親鸞の直系とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派大谷派)の礎を築いた。

== 生涯 ==

年齢は、数え年。日付は、『
御文』(『御文章』)などの文献との整合を保つ為、いずれも旧暦(宣明暦)表示とする(生歿年月日を除く)。
応永22年2月25日(1415年4月13日〔)、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、信太(現在の大阪府和泉市)の被差別部落出身だったともいう〔東上高志『川端分館の頃』p.154。〕〔高山秀夫『江戸から東京へ 物語でつづる部落の歴史』p.6(文理閣、1977年)〕。幼名は「
布袋丸」。
応永27年(1420年)、蓮如6歳。存如が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を退出しその後行方知れず。蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田本福寺法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。
永享3年(1431年)、17歳。青蓮院で得度し、中納言広橋兼郷の猶子となる。名を「
中納言兼壽」と改める。その後、本願寺と姻戚関係にあった大和興福寺大乗院門跡経覚(母方が大谷家(本願寺)の出とされ、父存如の従兄弟と推定されている)について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434年5月12日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如の書写になる現存最古のもの。永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲る(巧如は4年後の永享12年10月14日1440年11月17日)に示寂)。
嘉吉2年(1442年)、第1子(長男)順如誕生。文安4年(1447年)、父と共に関東を訪ねる。宝徳元年(1449年)、父と北国へ布教。享徳4年(1455年11月23日、最初の夫人、如了尼示寂。長禄元年(1457年6月17日、父も示寂、本願寺第8代を継職。留主職継職にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。
この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった近江比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧がくわえられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
長禄2年(1458年8月10日、第8子(5男)実如誕生(寛正5年(1464年)とも)。寛正6年(1465年1月8日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌1月9日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。3月21日、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の金森堅田大津を転々とする。更に蓮如と親友の間柄であった専修寺真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した(寛正の法難)。文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。
応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。応仁3年(1469年)、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年12月5日、第二夫人蓮祐尼示寂。
文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。7月27日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。
文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(但し、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。
文明7年(1475年8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波摂津を経て河内出口に居を定めた。文明10年(1478年1月29日、山科に坊舎の造営を開始。8月17日、第三夫人如勝尼示寂。文明13年(1481年)、真宗佛光寺派を継ぐ筈だった経豪が蓮如に帰順。蓮如から蓮教という名を与えられ、改名する。文明15年(1483年8月22日山科本願寺の落成。長男順如示寂。
文明18年(1486年)、紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎ができる。同年、第四夫人宗如尼示寂。
長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息〔消息…「御叱りの御書」、「騒動しずめの御書」と呼ばれる。(参考文献『蓮如上人の生涯と教え』57~58頁)〕を送って一揆を諌めた。延徳元年(1489年)、75歳。寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居して、「信證院」と号する。明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした(後の石山本願寺)。
明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日〔)、山科本願寺において85歳で示寂。
妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。
浄土文類聚鈔』が、蓮如の書写になる現存最古のもの。永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲る(巧如は4年後の永享12年10月14日1440年11月17日)に示寂)。
嘉吉2年(1442年)、第1子(長男)順如誕生。文安4年(1447年)、父と共に関東を訪ねる。宝徳元年(1449年)、父と北国へ布教。享徳4年(1455年11月23日、最初の夫人、如了尼示寂。長禄元年(1457年6月17日、父も示寂、本願寺第8代を継職。留主職継職にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。
この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった近江比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧がくわえられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
長禄2年(1458年8月10日、第8子(5男)実如誕生(寛正5年(1464年)とも)。寛正6年(1465年1月8日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌1月9日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。3月21日、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の金森堅田大津を転々とする。更に蓮如と親友の間柄であった専修寺真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した(寛正の法難)。文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。
応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。応仁3年(1469年)、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年12月5日、第二夫人蓮祐尼示寂。
文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。7月27日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。
文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(但し、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。
文明7年(1475年8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波摂津を経て河内出口に居を定めた。文明10年(1478年1月29日、山科に坊舎の造営を開始。8月17日、第三夫人如勝尼示寂。文明13年(1481年)、真宗佛光寺派を継ぐ筈だった経豪が蓮如に帰順。蓮如から蓮教という名を与えられ、改名する。文明15年(1483年8月22日山科本願寺の落成。長男順如示寂。
文明18年(1486年)、紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎ができる。同年、第四夫人宗如尼示寂。
長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息〔消息…「御叱りの御書」、「騒動しずめの御書」と呼ばれる。(参考文献『蓮如上人の生涯と教え』57~58頁)〕を送って一揆を諌めた。延徳元年(1489年)、75歳。寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居して、「信證院」と号する。明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした(後の石山本願寺)。
明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日〔)、山科本願寺において85歳で示寂。
妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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