|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 憂国 : [ゆうこく] 【名詞】 1. patriotism ・ 国 : [くに] 【名詞】 1. country
憂国忌(ゆうこくき)は、作家・三島由紀夫の命日の11月25日にちなんで、憂国忌実行委員会が毎年開催している追悼集会〔佐藤秀明「憂国忌」()〕〔三島由紀夫研究会「プロローグ あれから四十年が経過した」「第一章『憂国忌』前史」〕。憂国忌実行委員会は、「三島由紀夫研究会」に事務局を置いている〔〔。 == 成り立ち == 1970年(昭和45年)11月25日に起こった三島由紀夫の割腹自決事件(三島事件)を受け、三島を哀悼する有志により「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が同年12月11日に開かれた。この追悼会は林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋の豊島公会堂で行われた〔〔。 これが後の追悼集会「憂国忌」の起源となった。司会は川内康範と藤島泰輔、実行委員は民族派学生(日本学生同盟)で、集まった人々は3,000人以上(一説には7,000人)となった〔。500人収容の会場に入りきれず、近くの中池袋公園に集まった。この時は、事件に対する政府首脳やマスコミの反応に同調し、追悼参加を躊躇した文化人が多かったという〔。 翌年1971年(昭和46年)11月25日、「憂国忌」(第2回追悼の夕べ)が、林房雄を発起人代表として九段会館で行なわれた。名称が「憂国忌」に決まるまでには、「潮騒忌」、「金閣忌」などの案もあったという〔。乃木神社宮司・高山貢を斎主にした鎮魂祭、黛敏郎ほかの追悼挨拶・献花、映画『炎上』の上演、空手や剣道の奉納演武などが催された。楽屋には三島の父・平岡梓が林房雄を訪ね、礼を述べにやって来たという〔。 以降、「憂国忌」は毎年行なわれている。福岡でも1971年(昭和46年)から毎年、新嘗祭の11月23日には「福岡憂国忌」が行なわれている。また、「憂国忌」のほか、毎年11月24日には「野分祭」という森田必勝の辞世の句にちなんで名づけられた追悼会も、一水会主催により行なわれている〔一水会公式サイト 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「憂国忌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|