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憂歌団(ゆうかだん)は、日本のブルース・バンド。木村充揮・内田勘太郎・花岡献治・島田和夫の4人のメンバーは、1975年のデビュー当時から20年以上に渡り不動であった。 == 略歴 == 1970年、木村と内田の二人で結成。初ステージは花岡以外の3人が在籍していた大阪市立工芸高等学校の文化祭のステージだった。バンド名は「ブルース・バンド」の邦訳で、内田が考えた〔憂歌団結成の伝説〜「ベスト・オブ憂歌団ライブ」ライナー・ノーツより〕。高校卒業後、阿倍野の喫茶店で定期的にライブを行う。 1974年、ベースに花岡、ドラムに島田が加入。 1975年10月1日、トリオレコードのショーボートレーベルからシングル「おそうじオバチャン」でデビュー。同曲は彼らの代表曲として知られているが、一週間後に「掃除婦に対して差別的な歌である」との理由により、放送禁止処分を受けた〔オバチャンにはブルースが似合う 〕。 1976年12月、スリーピー・ジョン・エスティスの来日公演の前座とバック・バンドを務める。このときの模様は「Blues Is A Live」と題されたライヴ盤となっている。 1980年5月、マディ・ウォーターズと東京、大阪でジョイントする。 1982年2月28日、NHK-FM特番「Blues Made In Japan」でRCサクセションとジョイントする。5月、日比谷野音にて仲井戸麗市をゲストにコンサートを行う。 1983年、フォーライフレコードへ移籍し「リラックス・デラックス」をリリースする。 1986年7月、日比谷野外音楽堂で開催されたジャパン・ブルース・カーニバルに出演。以後、活動停止まで、同カーニバルには毎年出演した。 1988年6月、アメリカイリノイ州シカゴのシカゴ・ブルーズ・フェスティバルに日本人として初めて出演。プロデューサーに康珍化を迎えたアルバム「BLUE'S」が結成以来のビッグヒットとなる。 1990年、それまでの所属会社であるユニオンシャッフル(奥村ひでまろ社長)解散に伴い、憂歌団オフィスを設立。ジャンケンにより花岡が初代社長に就任。木村が木村充揮へ改名。続いて花岡も花岡献治へ改名。 1993年、フォーライフを離れ、ワーナーミュージックへ移籍。アルバム「GON-TA」をリリースする。 1996年、テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の4作目において、オープニングとエンディングのテーマ曲を担当する。また、その第33話では妖怪さら小僧の歌を盗用するバンドとして、全員が本人役で特別出演した。 1998年、バンドの冬眠を宣言し、同年12月に名古屋、大阪、東京で最後のコンサートを行った〔憂歌団軌跡 〕。 2012年10月2日、島田が神戸市中央区の自宅マンションの階段付近で遺体となって発見され、その後自殺と断定された〔および、〕。 2013年5月、再結成を発表。 8月3日、『情熱大陸 SPECIAL LIVE SUMMER TIME BONANZA'13』大阪公演に出演。8月10日、東京公演に出演。 9月7日・8日、なんばHatchにて復活ライブ『憂歌団からの便り。〜島田和夫祭り〜』を開催。オリジナルメンバー3人とゲストドラマー4人による「ドラマーズ」(新井田耕造〈ex.RCサクセション〉・梶原徹也〈ex.THE BLUE HEARTS〉・小林雅之〈JUN SKY WALKER(S)〉・杉山章二丸〈MOJO CLUB〉)という編成だった。 12月1日、ドラムに新井田耕造が加入。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「憂歌団」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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