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憲聖慈烈皇后(けんせいじれつこうごう、1115年9月18日〔『宋史』:乙未年。劉貴妃の太上皇后誕生日賀詞:旧暦8月21日〕 - 1197年12月19日)は、南宋高宗の2番目の皇后。姓は呉氏。 == 生涯 == 開封の人。珠宝商人〔『朝野遺記』〕の呉近と妻の張氏の三女〔姉らは楚国夫人、越国夫人。妹は秦漢国夫人。〕。初め、康王趙構(のちの高宗)の側女を務めた。 靖康の変の際、使節として開封を離れていた趙構に付き従っていたため、金軍による連行を免れた。高宗が即位すると、和義郡夫人に封ぜられた。呉氏は容姿は平凡であったが、読書を好み、武術を会得し、日増しに寵遇を受けるようになった。高宗は即位前後の数年間は流亡を続け、呉氏は戎服を着て帯刀し、衛士のように側に仕えた。 建炎4年(1130年)に才人に封ぜられ、その後に婉儀に進んだ。紹興12年(1142年)4月、貴妃に封ぜられた。同年8月、金と南宋の間に紹興の和議が成立し、高宗の母・韋氏が高宗の許に還された。またその際、康王時代からの正妻で金に抑留されたまま皇后に立てていた邢氏の死を知らされた。翌紹興13年(1143年)4月、呉氏は皇后に立てられた。 紹興32年(1162年)、高宗は養子の孝宗に譲位して自らは太上皇となった。呉氏は太上皇后として敬われ、徳寿宮にうつった。淳熙14年(1187年)、高宗は崩御した。淳熙16年(1189年)、孝宗も息子の光宗に譲位して太上皇となり、呉氏は寿聖太皇太后と改号された。 紹熙5年(1194年)に孝宗が崩ずると、父と反目した光宗が病と称して喪を執り行わなかったので、群臣らの憤りを引き起こした。80歳の呉氏は宋の宗室で知枢密院事の趙汝愚の建議を納れて、太皇太后として垂簾聴政し、光宗の廃位を宣布の上、光宗の子の寧宗を立てた。翌日、政権は寧宗に移管された。寧宗の下で権力をふるった韓侂冑は、呉氏の甥に当たる。 翌慶元元年(1195年)、寿聖光祐太皇太后と改号され、重華宮にうつった。慶元3年11月2日(1197年12月19日)、崩御した。「憲聖慈烈」と諡され、高宗の永思陵に合葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「憲聖慈烈皇后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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