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成子内親王 : ミニ英和和英辞書
成子内親王[おう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)
: [うち]
 【名詞】 1. inside 
内親王 : [ないしんのう]
 (n) imperial or royal princess
親王 : [しんのう]
 【名詞】 1. prince of royal blood 2. Imperial prince
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

成子内親王 ( リダイレクト:東久邇成子 ) : ウィキペディア日本語版
東久邇成子[ひがしくに しげこ]

東久邇 成子(ひがしくに しげこ、1925年大正14年)12月6日 - 1961年昭和36年)7月23日)は、日本の元皇族昭和天皇香淳皇后の第一皇女。今上天皇常陸宮正仁親王の長姉にあたる。お印紅梅勲等勲一等
旧名は、照宮 成子内親王(てるのみや しげこないしんのう)。皇籍離脱前の名は、盛厚王妃 成子内親王(もりひろおうひ しげこないしんのう)。
== 生涯 ==

=== 皇族時代 ===

1925年(大正14年)12月6日午後8時10分、皇太子・裕仁親王と同妃・良子女王(いずれも当時)の第1子として誕生。誕生時の身長は163分(=約49cm)、体重は873(=約3270g)〔1925年12月7日 東京朝日新聞「内親王の御体重 おみ大きく拝せらる」〕。12月12日、命名の儀が行われ『易経』より「恒」を由来として「照宮 成子」と命名された〔1925年12月13日 東京朝日新聞「けふお七夜の佳き日 皇孫御命名の儀」〕。
大正天皇貞明皇后の初孫として国民から盛大な祝福を受け、民間でもさまざまな祝賀が行われた。特に翌3月30日にはじめて参内し大正天皇・皇后と対面した際には、沿道に大勢の市民が集った〔1926年3月30日 東京朝日新聞(夕刊)「照宮殿下 初めての御参内 暖かき沿道に拝観者の群」〕。
皇太子夫妻の意向もあり、里子には出されず両親の元で養育される〔1925年12月17日 読売新聞「照宮の御養育は妃宮御手づから 御養育係長は置かぬ事に決定 」〕。当時としては画期的なことであった。しかし、その後、昭和天皇と香淳皇后の側では養育係が仕えにくく、結果わがままに育ったという批判を受けるようになった。そのため女子学習院入学を控えた1931年(昭和6年)10月、旧本丸内に呉竹寮の建設が決定〔1931年10月31日 東京朝日新聞「照宮様の御殿を宮城内へ御造営」〕。翌1932年(昭和7年)4月6日から呉竹寮に移り、家族と別居した。4月9日に女子学習院へ入学。その後、学齢を迎えた妹の内親王たちも呉竹寮へ移り、ともに生活するようになる。また選ばれた級友が5-6名ずつ輪番で呉竹寮を訪問した〔酒井美意子の回想によれば、体温測定を行い訪問専用の制服に着替えた上で御所に上がっていたという(酒井美意子『元華族たちの戦後史』主婦と生活社、P160)〕。穂積美代子前田美意子ら特に親しい学友は、これ以外に招きで呉竹寮や葉山御用邸に「お内緒」で招かれていた〔岩佐美代子『古典ライブラリー 宮廷に生きる』笠間書院、P3〕〔酒井美意子『元華族たちの戦後史』主婦と生活社、P160-161〕。また学友たちは、宮内省からの辞令を受けていた〔岩佐美代子『古典ライブラリー 宮廷に生きる』笠間書院、P4〕。
学習院時代は理科・作文が得意だったといわれる。1937年(昭和12年)頃から休暇の際には全国各地を単独で訪問するようになる。天皇の神格化が進む時代にあって、中等科5年生(1942年(昭和17年)頃)のときに次の様な文章を書いた。

成子内親王は生物学に関心を持ち、父帝の研究所での勤務を希望していたというが、1941年(昭和16年)5月に東久邇宮稔彦王の第一男子・盛厚王との婚約が内定〔1941年5月6日 読売新聞「照宮成子内親王殿下 御配偶に東久邇宮盛厚王殿下 御めでたき御内約」〕。
1943年(昭和18年)3月に女子学習院中等科卒業。学業成績は極めて優秀だった〔1943年3月29日 読売新聞「照宮成子内親王殿下 女子学習院中等科を  けふ御卒業」
なお、当時の報道だけでなく、後年になって岩佐美代子酒井美意子も著書の中で、照宮が優れた女性であったという回想を記している〕が、高等科へは進学せず花嫁修業をする〔1943年5月16日 朝日新聞「お慶びの照宮様・盛厚王殿下 拝すも畏し御二方の御日常」〕。
1943年(昭和18年)10月2日に納釆の儀。同年10月12日、結婚を控え勲一等宝冠章を賜り、翌日の10月13日に盛厚王(当時は陸軍少佐)と結婚する。第二次世界大戦中であり、皇女の婚儀とはいえ質素にとり行われた。着用した十二単は、母・香淳皇后のものだった。姉妹の中では体格が香淳皇后によく似ており、結婚の際に体の寸法を測ったところ、皇后の結婚当時の体型とピタリと一致したという。
成子内親王の意思は考慮されていない結婚であり、後に当時の心境を「悲しみもなく、不安な気持ちも、嬉しい気持ちもありませんでした」と語っている。夫となった盛厚王とは見合いを経ずに結婚したため、夫婦として心を通わせるのに時間がかかったという。そのため妹の内親王たちは形式的とは言え、見合いの場が設けられた。
ただ、盛厚王は真面目な人だったため2年ほどして互いに愛情がわいた、とも語っており、それなりに円満な家庭を築いた。1945年(昭和20年)3月9日、初産でもある信彦王出産時は東京大空襲の最中であり、防空壕の中で出産した。盛厚王との間には、信彦王、文子女王、基博(前名、秀彦。壬生家養子)、真彦、優子の5人の子供をもうけた。
結婚相手が皇族であったため、成子内親王もまた皇族のままであったが、1947年(昭和22年)10月14日、東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離れたため、新皇室典範第13条の規定により夫・盛厚王と同時に皇族の身分を離れた(昭和22年宮内府告示第16号)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「東久邇成子」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shigeko Higashikuni 」があります。




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