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成富 茂安(なるとみ しげやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。龍造寺氏次いで鍋島氏の家臣。 == 生涯 == === 幼少期から少年期 === 永禄2年(1559年)、龍造寺氏の家臣である成富信種(のぶたね、「信」の字は主君・龍造寺隆信から偏諱を与えられたものであろう)の次男として、現在の佐賀県佐賀市鍋島町増田に生まれる。 元亀元年(1570年)、今山の戦いの際にはまだ12歳であったため、出陣の許可が出なかった。それに納得がいかなかったので、誰にも見つからないように独断で戦場に赴き、物見を行ったという。この行いが主君・隆信の目に留まり、それ以来小姓として側近くに仕えるようになる。元服すると隆信より一字を賜り「信安」と名乗った〔。 天正4年(1576年)、隆信が肥前有馬氏と戦うべく藤津へ進軍した〔『北肥戦誌(九州治乱記)』〕際に、父と共に同行し初陣を迎える〔。 天正5年(1577年)、幼い頃から大人でさえも手のつけられない暴れ者であり、この頃も村里を遊行し博打に興じるなど素行不良が改まらず、この年に籾蔵二つを博打の形に失うなどした〔。諫めても改まらない素行に、成富一門は信安を殺すべきであると信種に相談する。しかし、信種がもう少し様子を見るよう一門を説き、素行の改まらない時は自らの手で殺すと述べた〔。信安はそれにより改心し、その後は勉学や武芸に励むようになる。 天正7年(1579年)、隆信にその勇猛果敢な戦いぶりを認められ、「一日で十度の武功を立てた」ということにちなんで、十右衛門の名を与えられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「成富茂安」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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