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成田 亨(なりた とおる、1929年9月3日 - 2002年2月26日)は青森県出身のデザイナー、彫刻家。 ==略歴== 神戸市で生まれ、幼少期より父方の故郷である青森市にて育つ〔。漫画家の成田美名子は従兄弟の娘にあたる。 1歳になる前、青森県の自宅で、囲炉裏の火をつかもうとして左手に火傷を負い〔、数度の手術でも治らなかった。小学校ではこの事でいじめられ、右手だけ描ける絵が救いとなった。旧青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)卒業〔。印刷工として働き資金を貯め、1950年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学〔。当初洋画を専攻していたが、、途中で彫刻学科に転科〔。彫金の作業中、移植した皮膚からはしばしば血が流れたという。 1954年、美術学校卒業後、、映画作品『ゴジラ』(東宝、本多猪四郎監督)にアルバイトとして参加〔。怪獣ゴジラに壊される建物のミニチュアを制作。以後、美術スタッフとして、各映画会社の特撮作品に携わる〔。 1955年、彫刻作品で「第19回新制作展」に入選した。 1956年武蔵野美術学校彫刻研究科(現大学院)を修了、映画監督の下に弟子入りする。1962年第26回新制作展新作家賞を受賞〔。 1965年春、円谷特技プロダクションの契約社員となり、特撮テレビ映画『ウルトラQ』(1966年、TBS)の第2クールから美術監督を務める。続く『ウルトラマン』(1966年、TBS)、『ウルトラセブン』(1967年、TBS)、『マイティジャック』(1968年、フジテレビ)でも、怪獣やレギュラーメカのデザインを手がけた〔。これらキャラクターデザインに関しては、後にその著作権を巡り、円谷プロと争うことになる。 1968年、円谷プロを退社〔。『ウルトラセブン』の美術監督を中途降板した後、青森市で初の個展を開催。 その後、大阪万博の「太陽の塔」内部の「生命の樹」のデザイン、映画の美術監督などを経て、全国各地で個展を開催する。著書・作品集多数。 2002年2月26日、多発性脳梗塞により死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「成田亨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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