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成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年) - 1982年(昭和57年)10月26日〔『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、924頁。〕)は、日本の外交官。在ドイツ日本大使や終戦連絡中央事務局第一部長、国連政府代表団代表などを歴任。東京府出身。 == 来歴・人物 == 東京府生まれ。麹町小学校、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部を卒業。在学中の1927年高等文官試験外交科に合格し、卒業と同時に外務省に入省。同期入省組には、東大法科でも同期だった与謝野秀がいる〔文官高等試験合格者一覧 〕。 入省後、書記生としてイギリスへ配属されたのを皮切りに、戦前はドイツなどに在勤。帰国後、人事課長などを務めた後、終戦に伴い終戦連絡中央事務局第一部長に就任し〔清水太郎「澤田廉三の手紙 -敗戦前後の活動を中心に-」 〕、同局長官岡崎勝男の側近としてポツダム宣言受諾に関わった〔法廷証番号3614A: 東郷茂徳宛成田勝四郎書翰 文書名:GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section = 連合国最高司令官総司令部国際検察局文書 ; Entry No.327 Court Exhibits in English and Japanese, IPS, 1945-47 〕〔法廷証番号3614: 成田勝四郎宣誓供述書 文書名:GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section = 連合国最高司令官総司令部国際検察局文書 ; Entry No.327 Court Exhibits in English and Japanese, IPS, 1945-47〕。 1953年に在チリ日本公使を務めた後、パキスタン、オーストラリア、西ドイツで在日本大使を歴任。また、日本が国連加盟を果たして初めて総会初頭より参加した1957年第12回国際連合総会(代表首席・藤山愛一郎外務大臣)に国連政府代表団代表として参加し、日本の国際連合安全保障理事会非常任理事国初当選に貢献した〔昭和33年版わが外交の近況 外交青書〕。その他、北方領土問題対策協会副会長などを歴任し〔『なぜ帰らぬ30年』北方を語る会/編 1975.10.30〕、戦後日本外交の重要な課題に取り組んだ。 妻は、林内閣で外務大臣を務めた佐藤尚武の長女・房子〔久家道子ストーリー 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「成田勝四郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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