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戚本禹(せき ほんう、1931年 - )は中華人民共和国の政治家。1949年に中国共産党入党、中国共産党中央弁公庁信訪科科長、『紅旗』歴史部編集長などを務めた。 1965年12月8日、『紅旗』雑誌(第13期)において論文『革命のための歴史研究』を発表、翦伯賛の唱える階級観点の重視と歴史主義を「超階級」、「純客観」の資産階級による視点であると攻撃、毛沢東の支持を獲得した。 1966年には中央文化革命小組のメンバーとなり、中央弁公庁秘書局副局長、『紅旗』副総編集、中国共産党中央弁公庁代主任を務め、毛沢東及びその夫人である江青の秘書を担当した。『紅旗』1966年第5期号では「愛国主義か売国主義か?-歴史映画『清宮秘史』を評す」を、1966年第7期号では「『前線』及び『北京日報』の資産階級としての立場を評す」を発表。特に『愛国主義か売国主義か?」は1967年4月1日に『人民日報』に全文が掲載され、「党内最大の『走資派』及び反革命修正主義路線に対する革命大批判」が共産党内の基調論説とされるに至った。この「党内最大の『走資派』」とは国家主席の劉少奇を指しており、論文の中では劉を「中国のフルシチョフ」と名指しで公然と批判して、すでに文革派から糾弾を受けていた劉に対する攻撃を激化させた。同年7月18日には、中南海で「劉少奇批判闘争大会」を自ら開催した。 1967年4月14日には、遇羅克が血統による「革命的階級」「反革命的階級」の区別を批判した『出身論』は大毒草であると批判し、1968年1月5日に遇羅克は逮捕された。 しかし1968年1月になると共産党中央より隔離審査の対象とされ、党内外の全ての職務を解任された。その結果1980年7月14日、北京市公安局により逮捕、1983年11月2日には北京市中級人民法院において反革命宣伝煽動罪、誣告罪、群集騒擾罪などにより懲役18年、政治権利剥奪4年の判決を受けた。 1986年に保釈されると上海市図書館収蔵部の司書を務め1990年代初頭に定年退職した。保釈後は妻子と同居し、『大人物的変態心理』、『中華易学大辞典』などを共著で出版している。2014年現在は、「歴史学者」として毛沢東に関する講演もおこなっている〔「孫子兵法と企業戦略」 - 上海セミナー・イベント情報(2014年7月20日開催)〕。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戚本禹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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