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丹後(たんご)とは、かつて大日本帝国海軍に所属した戦艦である。 元は、ロシア帝国海軍が建造したペトロパブロフスク級戦艦(ポルタヴァ級艦隊装甲艦)の1隻ポルタヴァ()である。姉妹艦にペトロパブロフスクとセヴァストポリがあるが、ともに日露戦争において沈没し、戦没を免れた本艦のみ日露戦争時に日本海軍によって鹵獲された8隻の戦利艦の1隻として「丹後」と改名してから再就役した。天皇に奏聞した候補艦名に「讃岐」があった〔明治38年8月10日付 海軍大臣官房発行 官房第3040号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C06091630000 で閲覧可能。〕。 == 艦歴 == のちに丹後となるポルタヴァ(ロシア語:パルターヴァ)はポルタヴァ級艦隊装甲艦のネームシップとして建造され、1898年にロシア帝国海軍に編入された。ロシア海軍における類別は艦隊装甲艦()で、いわゆる前弩級戦艦と評価される。 ポルタヴァは日露戦争で日本海軍の旅順口攻撃に対応して戦っている。マカロフ中将がペトロパブロフスクの触雷沈没で戦死した4月23日には後続艦であったため同じく触雷で被害を受けた。旅順攻囲戦において黄海海戦に参戦したが、この戦いは日本側の勝利に終わり、本艦はウラジオストクへの離脱に失敗して旅順に戻った。203高地陥落後、同地に設置された日本陸軍の「28cm榴弾砲」からの曲射砲撃を受けて前部弾薬庫において炎上・弾薬庫爆発により艦底部に穴が開き浸水。旅順港内に大破着底したが、浅瀬に停泊していたために水没は免れた。 講和後の1905年5月に日本の業者によって浮揚処理開始、7月に浮揚されたポルタヴァは未修理のまま8月に日本海軍籍に編入され一等戦艦「丹後」と改名され、同月29日に舞鶴海軍工廠に回航後に応急修理を受けた。1907年に修理が完了する間に一等・二等の等級の区別が廃止され、単に戦艦「丹後」として大日本帝国海軍に編入された。 この折に海水に浸かったボイラーは国産の宮原式石炭専焼缶16基に換装され、それに伴って2本煙突も形状を変えた。前後のマスト上部に付くアンテナ用ポールも十字型のクロスツリーへと変更された。武装面では主砲と副砲はロシア製からイギリスのアームストロング社製の物に換装し、戦訓から対水雷艇迎撃用の「7.6cm(40口径)速射砲」を単装砲架で片舷5基ずつ計10基を追加し、艦首尾部の45.7cm水中魚雷発射管2基は全て撤去され、替わりに38.1cm水上魚雷発射管は使用する魚雷を大型の45.7cm魚雷に替えて使用した。 第一次世界大戦が勃発すると日本とロシアは同盟国になったため、1916年4月4日に日本海軍から除籍後、ロシア海軍側に返還された。返還後、元の艦名はガングート級戦艦で使用されていたためにチェスマ(チスマー)と改称されてウラジオストック艦隊に所属した。その後は白海に移された。 1917年2月3日に白海艦隊に編入された。1917年10月、乗員はソヴィエト軍に参加することを決定。 1918年より始まったロシア内戦中の3月に、連合軍がムルマンスクに到着した時、本艦は同地に在泊しており、そのまま連合軍に捕獲された。 本艦は座礁状態であったためにイギリスの判断でボルシェビキ40人を収容するハルク兼刑務所として使用された。1919年10月、イギリス軍が撤退した後、1920年4月24日、チェスマはボルシェビキの白海艦隊に所属。1921年6月16日に保管のためにアルハンゲリスクに移され、検査を受けたがイギリス軍により修理の限度を超えた損傷を受けたため1923年に廃棄処分とされ、1924年7月3日に解役、その後アルハンゲリスクで解体された。''パルターヴァ)はポルタヴァ級艦隊装甲艦のネームシップとして建造され、1898年にロシア帝国海軍に編入された。ロシア海軍における類別は艦隊装甲艦()で、いわゆる前弩級戦艦と評価される。 ポルタヴァは日露戦争で日本海軍の旅順口攻撃に対応して戦っている。マカロフ中将がペトロパブロフスクの触雷沈没で戦死した4月23日には後続艦であったため同じく触雷で被害を受けた。旅順攻囲戦において黄海海戦に参戦したが、この戦いは日本側の勝利に終わり、本艦はウラジオストクへの離脱に失敗して旅順に戻った。203高地陥落後、同地に設置された日本陸軍の「28cm榴弾砲」からの曲射砲撃を受けて前部弾薬庫において炎上・弾薬庫爆発により艦底部に穴が開き浸水。旅順港内に大破着底したが、浅瀬に停泊していたために水没は免れた。 講和後の1905年5月に日本の業者によって浮揚処理開始、7月に浮揚されたポルタヴァは未修理のまま8月に日本海軍籍に編入され一等戦艦「丹後」と改名され、同月29日に舞鶴海軍工廠に回航後に応急修理を受けた。1907年に修理が完了する間に一等・二等の等級の区別が廃止され、単に戦艦「丹後」として大日本帝国海軍に編入された。 この折に海水に浸かったボイラーは国産の宮原式石炭専焼缶16基に換装され、それに伴って2本煙突も形状を変えた。前後のマスト上部に付くアンテナ用ポールも十字型のクロスツリーへと変更された。武装面では主砲と副砲はロシア製からイギリスのアームストロング社製の物に換装し、戦訓から対水雷艇迎撃用の「7.6cm(40口径)速射砲」を単装砲架で片舷5基ずつ計10基を追加し、艦首尾部の45.7cm水中魚雷発射管2基は全て撤去され、替わりに38.1cm水上魚雷発射管は使用する魚雷を大型の45.7cm魚雷に替えて使用した。 第一次世界大戦が勃発すると日本とロシアは同盟国になったため、1916年4月4日に日本海軍から除籍後、ロシア海軍側に返還された。返還後、元の艦名はガングート級戦艦で使用されていたためにチェスマ(チスマー)と改称されてウラジオストック艦隊に所属した。その後は白海に移された。 1917年2月3日に白海艦隊に編入された。1917年10月、乗員はソヴィエト軍に参加することを決定。 1918年より始まったロシア内戦中の3月に、連合軍がムルマンスクに到着した時、本艦は同地に在泊しており、そのまま連合軍に捕獲された。 本艦は座礁状態であったためにイギリスの判断でボルシェビキ40人を収容するハルク兼刑務所として使用された。1919年10月、イギリス軍が撤退した後、1920年4月24日、チェスマはボルシェビキの白海艦隊に所属。1921年6月16日に保管のためにアルハンゲリスクに移され、検査を受けたがイギリス軍により修理の限度を超えた損傷を受けたため1923年に廃棄処分とされ、1924年7月3日に解役、その後アルハンゲリスクで解体された。''チスマー)と改称されてウラジオストック艦隊に所属した。その後は白海に移された。 1917年2月3日に白海艦隊に編入された。1917年10月、乗員はソヴィエト軍に参加することを決定。 1918年より始まったロシア内戦中の3月に、連合軍がムルマンスクに到着した時、本艦は同地に在泊しており、そのまま連合軍に捕獲された。 本艦は座礁状態であったためにイギリスの判断でボルシェビキ40人を収容するハルク兼刑務所として使用された。1919年10月、イギリス軍が撤退した後、1920年4月24日、チェスマはボルシェビキの白海艦隊に所属。1921年6月16日に保管のためにアルハンゲリスクに移され、検査を受けたがイギリス軍により修理の限度を超えた損傷を受けたため1923年に廃棄処分とされ、1924年7月3日に解役、その後アルハンゲリスクで解体された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹後 (戦艦)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Russian battleship Poltava (1894) 」があります。 スポンサード リンク
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