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信濃(しなの)は、日本海軍の航空母艦〔。建造中の大和型戦艦3番艦(110号艦)を戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更したものである〔#海軍軍備(3)p.10『三.戰艦信濃及紀伊の建造工事中止 (マル4)計畫に基く戰艦信濃及紀伊は夫々横須賀及呉海軍工廠に於て起工(紀伊は予定より六ヶ月繰上げ)し二重底迄の船殻工事を終つた時期に主として甲鈑の製造遅延の為一時建造工事を中止するに至つたが後日開戰後の軍備戰備計畫の大改變に基き信濃は航空母艦として再現せしめ得たが紀伊は遂に解体することとなつたものである。』〕〔#海軍軍備(4)p.13『呉工廠の一一一號艦は一一〇號艦に比し約半年遅れて起工しているので解体可能(所要工數數千)とされたので遂に昭和十七年初に工事中止が確定された。 斯くて兩艦共進水の偉容さえ観ることなく、次項に述べるミツドウエー海戰の結果もあり、一一〇號艦は航空母艦として再出發、一一一號艦は解体することに決定された。』〕。 艦名は旧国名の信濃国から採られた。1944年(昭和19年)11月下旬、未完成のまま回航中に米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく沈没した〔#潜水艦戦争393頁『「信濃」の最期』〕。 1961年にアメリカ海軍最後の通常動力推進空母キティホーク(満載 83,301t)が登場するまでは史上最大の排水量を持つ空母だった〔#猛き艨艟324頁等では、原子力空母エンタープライズ (CVN-65)が出現するまでとしている〕。 == 改装までの経緯 == === 大和型戦艦第110号艦 === 第一次世界大戦後締結されたワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約で海軍力を制限された日本海軍は、国力・経済力で圧倒的優位に立つアメリカに対し量を質で凌駕するという発想から、46cm砲を搭載した大和型戦艦を計画する。条約明けの1937年(昭和12年)、第1号艦大和・第2号艦武蔵、第3号艦翔鶴、第4号艦瑞鶴、第5号艦日進等は第70回帝国議会に提出された第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)により予算が承認され、建造が始まった。翌年、日本海軍は第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)を立ち上げ、艦齢30年が経過した金剛型戦艦3番艦榛名、4番艦霧島の代艦として大和型戦艦建造番号第110号艦、第111号艦、計2隻の建造を決定した。この2隻は、先に建造された第1号艦(大和)、第2号艦(武蔵)の不具合を改善し、より完成度の高い戦艦となるはずだった〔#猛き艨艟325頁〕〔#庭田、建艦秘話54-55頁『2.第百十一号艦について』〕〔#海軍軍備(2)p.25『(艦種)戰艦|單艦屯數(基準排水量)六四,〇〇〇|(隻數)二|(合計屯數)一二八,〇〇〇|(速力)二七.〇|(航續力)一六-七,二〇〇|(主要兵装)四十六糎砲 九/十五.五糎砲 一二/十糎高角砲 一二/飛行機 六|(備考)一隻は建造中止解体 一隻は空母に改造となる』〕。 第110号艦は横須賀海軍工廠に第六船渠を新造し、そこで建造されることが決まった〔#安藤 信濃33頁、#歴史群像22信濃97頁〕。大和型戦艦の排水量は7万トンを超える。このクラスの超大型艦が合計4隻も建造される予定に対して、将来的に発生するであろう修理・改造工事に使用可能なのが呉にある1つの船渠(ドライドック)だけでは順番待ちなどの恐れが生じることや、横須賀を呉に並ぶ海軍の重要拠点としたいという意向があったため、姉妹艦の武蔵(長崎、三菱重工)のように船台での建造を選ばず、大和型戦艦用の第6船渠を新たに作る事になった〔#歴史群像22信濃96頁〕。当時の横須賀最大のドックは、長門型戦艦2番艦「陸奥」が建造中に入渠した第5船渠だった〔#海軍艦艇史1pp.364-367。〕〔#歴史群像22信濃78頁にある『「陸奥」(三万三八〇〇常備トン)を造った五号乾ドック』は間違い。「陸奥」は第2船台で建造され、進水後に入渠したこともある。〕。2年3ヶ月の期間と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336m、全幅62m、深さ18mのドックが完成した〔#安藤 信濃29頁、#歴史群像22信濃78,96頁〕。この時に排出した土砂は、隣接していた海軍砲術学校の海岸埋め立てに使用され、広いグラウンドとなった。 第二復員局がまとめた資料では、110号艦の起工日は1940年(昭和15年)4月7日となっている〔#海軍軍備(2)p.28『(マル4)計画艦艇工事経過 戰艦|110号』〕〔#海軍軍備(4)p.13『一一〇號艦は予定通り昭和十五年四月七日、一一一號艦は予定を半年繰上げ同年十一月七日起工され、大和型の第三、第四番大戰艦の工事がスタートした』〕。 5月4日、ドックの完成と同時に第110号艦の起工式が行われる〔#牧野ノート195頁、#安藤 信濃16-17頁、保科実雄(主任技師)談。〕。第110号艦自体の予算は約1億4770万円(当時)で、国会議事堂(2570万円)が6つ建設できる計算となる〔#安藤 信濃16-17頁、#歴史群像22信濃96頁〕。この時のお祓いも機密保持を考慮し、外部から本職の神主を呼ぶのではなく、工廠の関係者の中から神主の資格を持っていた足場組長の大須賀種次が選ばれ、大役が任された〔佐藤和正『空母入門』〕〔#安藤 信濃31頁「超弩級戦艦一一〇誕生への胎動」〕。大和、武蔵が予算計上時は一号艦、二号艦と呼ばれていたことから、本艦にも三号艦の俗称があった〔#諏訪 撃沈13-14頁〕。また工員達の間では第110号艦を略して「110」と呼ばれていた〔#歴史群像22信濃160頁、神谷武久(学徒報国隊・信濃工員)談。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「信濃 (空母)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Japanese aircraft carrier Shinano 」があります。 スポンサード リンク
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