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立花 道雪 / 戸次 鑑連(たちばな どうせつ/べっき あきつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名・大友氏の家臣。臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた〔。 大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。〔だが、豊後の儒学者・帆足万里が著した『井樓纂聞 梅岳公遺事』その第二卷 P.26に、天正八年の際、道雪から宗麟への書信にすでに立花道雪と署名したと指摘された。〕 == 生涯 == === 少年期・家督相続 === 永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後の国大野郡(大野荘)大野郷藤北(大分県豊後大野市大野町))鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれる〔楠戸義昭『戦国名将・智将・梟将の至言』P160〕。最近、生誕地は、県民の森四辻峠付近の柳ヶ台(大野町高野字城浦)と解明された。幼名は八幡丸(はちまんまる)〔。長兄は早世したため嫡男として育てられる。 幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。元服前の14歳の時、病弱な父に「我が父上の名代として出陣致す」と自ら志願し、武功の老臣3人の補佐を付けて、2000人の兵を授けられて初陣した〔。この時は大内領の豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)を攻め、道雪は金の指揮旗を振って奮戦し、兵力で3000ほど勝る大内軍に勝利して凱旋した〔。その直後の大永6年(1526年)、父・親家の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続し、親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)を名乗った。家督相続後は大友義鑑に仕え、のちにその偏諱を賜って鑑連に改名する。 その後、天文4年(1535年)8月22日、肥後菊池氏などの肥後国人の反叛の際には、肥後に出陣して車返の戦いで勇猛奮戦し、乱を鎮圧した。 天文15年(1546年)秋月文種の一度目謀反の時には、大友義鑑の命令を受け、佐伯惟教、臼杵鑑速、吉弘鑑理など大友諸将と共に筑前古処山城へ出陣、この乱も鎮圧した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立花道雪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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