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戸次 鎮連(べっき しげつら、生年不詳 - 天正14年(1586年))は、豊後国の戦国大名・大友氏家臣。大友氏庶流・戸次氏の16代当主。父は戸次鑑方で、猶父は戸次鑑連(立花道雪)。弟に戸次鎮林(しげきみ/しげとき)〔立花の姓を与えられる。文禄の役で戦死。〕。子に統連、戸次統利(むねとし)他。鎧ヶ岳城主。 == 略歴 == 戸次鑑方の長男として生まれる。鑑方の嫡男であったが、天文22年(1553年)頃子のなかった伯父の戸次鑑連の猶子となった。主君・大友義鎮(宗麟)と猶父・鑑連より1字ずつ賜って鎮連を名乗る。その後は、鑑連に従って筑前国・豊前国を転戦した。 永禄10年(1567年)の秋月種実との戦い「休松の戦い」では、父・鑑方ら多くの一門や家臣が討死するも、鎮連は奮戦して戦功を挙げた。 天正6年(1578年)には日向国北部に侵攻し、土持親成らを討って、土持氏を滅亡に追い込んだ。しかし、同年6月の「耳川の戦い」にも出陣したが、この戦いで大友氏は島津氏に大敗北を喫し、豊後国内の情勢も風雲急を告げた。猶父・立花道雪らは大友氏の衰勢を挽回すべく筑前筑後で奮闘を続けた。 鎮連は、天正8年(1580年)に斜陽の大友氏を支えるべく、志賀道易 (道益)、一萬田鎮実らと連署で大友義統を諌める書状を提出したが、聞き入れられなかった。天正13年(1585年)に、猶父・立花道雪が死去。いよいよ、大友氏の衰運は決定的となる。 天正14年(1585年)、大友家加判衆となるが、すでに民心も離れて一揆が起こる。そこに島津氏が北進して豊後国まで侵攻を始めたが、柴田紹安、志賀道雲、道易、朽網宗暦〔別説あり。『鶴賀城戦史』による。〕、戸次玄三、一萬田紹伝、麻生紹和、鎮連〔別説あり。実際に内応したかは不明。嫌疑をかけられたのはほとんど南部衆で、他の南部衆が裏切ったために同様に疑いをかけられたとも、諌言を繰り返して義統に疎まれていたためとも云う。〕はすでに島津氏に内応しており、大友方に残った諸城も次々と陥落する。 鎮連は、他の内応者と同様に大友義統によって誅殺、もしくは城を明け渡して自害に追い込まれたとするが、詳細は伝わっていない。嫡男の統連が統常に改名して跡を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸次鎮連」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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