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戸次 鑑方(べっき あきかた、生年不詳 - 永禄10年(1567年))は、戦国時代の武将。豊後国の大名大友氏の家臣。大友氏庶流の戸次氏の一族。養母は立花道雪の母の養孝院。異母兄に戸次鑑連(のちの立花道雪)、異母弟に戸次親行(ちかゆき)〔子に立花次郎兵衛統春。〕〔。〕。子に戸次鎮連〔立花氏を継いだ伯父・鑑連から戸次氏宗家の家督を継ぐ。〕、戸次鎮林(しげきみ/しげとき)〔立花の姓を与えられる。文禄の役で戦死。〕がいる。 == 略歴 == 戸次親家の三男として生まれるが異説がある〔。異母兄・鑑連同様、大友義鑑から偏諱を賜り鑑方〔名(諱)は鑑堅と表記される場合もあるが、従兄弟に同名の人物がいるため鑑方で書かれる場合が多い。〕と名乗る。鑑連に従い各地で戦功を挙げる。1550年(天文19年)2月、二階崩れの変において大友義鎮に戦功を賞される〔大分県教育庁文化課 編『大友宗麟 資料集』第一巻、大分県教育委員会、1993年〕。1556年(弘治2年)、田原親宏等と共に毛利氏に帰順した豊前守護代であった松山城(豊前国)主の杉重吉を攻める〔大分県教育庁文化課 編『大友宗麟 資料集』第二巻、大分県教育委員会、1993年〕。1567年(永禄10年)8月、毛利氏と組んで勢力拡大を図る秋月種実を討伐するため、鑑方も兄とともに筑前国に出陣した。同年9月、秋月軍は大友軍と激突したが、戦況不利として引き上げた。その夜、警戒を解いた大友軍に対して種実は夜襲を仕掛けた。これを「休松の戦い」と言う。秋月軍の夜襲を受けた大友軍は、同士討ち等で壊乱し、乱戦の中、鑑方も一族の戸次親繁、戸次親宗らとともに種実に討ち取られた。 史書によっては、この休松の戦いを大友軍の勝利としているが、戸次一族の多くが討死する等、多くの被害を受けた。実際は引き分けか、事実上の敗北と思われる。その後も秋月種実は筑後国へ撤退する大友軍に追撃をかけて、多くの将兵を討ち取った。同年9月8日、義鎮もこの戦いでの被害に対して鑑連に弔意文を送った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸次鑑方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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