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戸沢 政盛(とざわ まさもり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。常陸松岡藩主、のち出羽新庄藩の初代藩主。戸沢氏第20代当主〔。出羽角館の戦国大名・戸沢盛安の子。 == 生涯 == 天正13年(1585年)、戸沢盛安の長男として生まれる。 生母は盛安が鷹狩に出た際に見初めた小古女沢の百姓・源左衛門の娘。このため身分の低い母を持つ庶子であるため、家督を継ぐ資格がなく、この女性は後に東光坊という山伏に嫁いだため、政盛は百姓の子として育っていた〔大友『シリーズ藩物語 新庄藩』、P11〕。ところが、父・盛安が天正18年(1590年)に死去し〔阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P545〕、その跡を継いだ叔父の戸沢光盛も文禄元年(1592年)に死去し〔大友『シリーズ藩物語 新庄藩』、P12〕、加えて光盛には継嗣がなかったため、戸沢家は断絶の危機に見舞われた。そこで家臣団は、東光坊を斬って盛安の遺児・政盛を奪い取り、至急大坂に上坂させて豊臣秀吉に謁見させ、家督を相続させた〔〔。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に与して上杉景勝の東禅寺城を攻略し〔阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544では攻略したのは酒田城〕、その功により慶長7年(1602年)、常陸多賀郡、茨城郡などに4万石を与えられ、松岡藩主となる〔。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では小田原城、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では江戸城に詰めて守衛を果たし、徳川家に味方した〔阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544〕。 元和8年(1622年)、出羽山形藩の最上家が幕府の命により改易されると、最上家の旧領である最上郡と村山郡に2万石を加増されて新庄に移封され〔、新庄藩6万石の藩主となり、故郷出羽国への復帰を果たした。その後は藩政確立に尽力した。 慶安元年(1648年)閏1月22日に死去した〔。享年64〔。跡を子の正誠が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸沢政盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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