翻訳と辞書
Words near each other
・ 戸田信太郎
・ 戸田信子
・ 戸田信子 (アナウンサー)
・ 戸田信子 (作曲家)
・ 戸田修三
・ 戸田光則
・ 戸田光庸
・ 戸田光慈
・ 戸田光昭
・ 戸田光正
戸田光洋
・ 戸田光熈
・ 戸田光直
・ 戸田光規
・ 戸田光重
・ 戸田全久
・ 戸田公園
・ 戸田公園 (戸田市)
・ 戸田公園駅
・ 戸田公明


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

戸田光洋 : ミニ英和和英辞書
戸田光洋[とだ みつひろ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

戸田光洋 : ウィキペディア日本語版
戸田光洋[とだ みつひろ]

戸田 光洋(とだ みつひろ、1977年9月10日- )は、宮崎県都城市出身のサッカー指導者、元プロサッカー選手。
現役時代のポジション登録はフォワード(FW)だったが〔登録選手一覧表 Jリーグ 2008.12.12〕、ミッドフィールダー(MF、サイドハーフ)や、ディフェンダー(DF、サイドバック)も務めた。
元サッカー選手の戸田賢良は実弟。
== 来歴 ==
体育教師で〔高校サッカー指導者でもあった父の影響でサッカーを始める〔〔。
都城泉ヶ丘高校在学中には、進学校で無名の同校サッカー部を県内有数の強豪へと押し上げ宮崎県選抜として2年連続で国体に出場〔。父のように将来指導者になることを考えて〔〔 東京中日スポーツ (2009年11月18日)〕、1996年筑波大学へ進学。4年時(1999年)には関東大学リーグで優勝、得点王〔1999年 第73回関東大学サッカーリーグ戦 順位表・得点、アシストランキング College Soccer Central〕、ベストイレブン、MVPの4冠に輝いた〔。同年、ユニバーシアード出場〔1999年 第20回ユニバーシアード・マヨルカ(スペイン)大会 ユニバーシアード代表メンバー College Soccer Central〕。
2000年、Jリーグ・FC東京に入団。ここで大熊清監督から守備意識を叩き込まれたことがその後のサッカー人生につながった〔。2001年FWを2トップから1トップへと変更したことに伴い、MF(左サイドハーフ)に配されるようになる。当初はFWへのこだわりを捨てられずにいたが、2002年に就任した原博実監督によって、ポジションの固定観念を捨ててサイドからゴールを狙うスタイルを身に付け〔、同年J1・1st第8節サンフレッチェ広島戦でハットトリックを記録した〔公式記録 2002Jリーグ ディビジョン1 1stステージ 第8節第2日 Jリーグ〕。右サイドのMF石川直宏がサイド突破を仕掛けていくのに対し、戸田は左から中、時には右へとピッチを横切る破天荒なダイアゴナルランで相手をかき回し、チーム1のスタミナ東京中日スポーツ (2005年1月31日)〕〔 東京中日スポーツ (2006年1月31日)〕と運動量で原が志向するサッカーのシンボル(石川談〔【スペシャルインタビュー Vol.21】FC東京:石川直宏選手 J's GOAL (2005年9月22日)〕)として活躍。2003年にはチーム唯一の公式戦全40試合出場を記録した。献身的な守備とチャンスメイクが光る一方〔〔〔、決定力には欠け〔 東京中日スポーツ (2007年1月12日)〕、原からは「戸田は(1シーズンで)30点くらい取っていてもおかしくない(くらいに多くの決定機を作っていた)よね」と評されていた〔。
2007年清水エスパルスへ完全移籍〔 FC東京 (2007年1月11日)〕〔 清水エスパルス (2007年1月11日)〕。長谷川健太監督からはスピードとスタミナを活かすためにDF(右サイドバック)として構想され〔【キャンプ2日目】輝け!セントウ集団 清水エスパルス (2007年2月5日)〕期待を寄せられていたが〔、このポジションで出場した同年2月の練習試合ロッソ熊本戦で上村健一のスライディングタックルによって〔左腓骨を骨折〔 日刊スポーツ (2007年2月7日)〕〔 スポーツニッポン (2007年2月8日)〕。全治3ヶ月の診断を受け〔戸田光洋選手のケガについて 清水エスパルス (2007年2月6日)〕、治療とリハビリによる離脱を強いられた。同年8月のJ1第22節アルビレックス新潟戦で移籍後初出場。第23節横浜FC戦と2戦連続でFWチョジェジンの得点をアシストした〔【J1:第23節】清水 vs 横浜FC:試合終了後の各選手コメント J's GOAL (2007年8月29日)〕。復帰後もコンディション不良は続いており、ボルト除去手術による再離脱〔J1清水、兵働&戸田の復活劇だ 日刊スポーツ (2008年5月3日)〕も予定されていたためこの年限りで引退するつもりでいたが、戸田と同じタイミングで清水に加入した西澤明訓から慰留を受け〔残留。2008年10月4日、古巣FC東京戦で移籍以来初のFWとしての出場機会を得て〔、移籍後初得点。この試合は戸田の公式戦出場150試合目のメモリアルマッチでもあり、この試合終了後に現役引退を決意〔。契約更新の提示を固辞し〔、2009年2月に引退が発表された〔戸田光洋選手 現役引退のお知らせ 清水エスパルス (2009年2月3日)〕。
2009年から立正大学サッカー部コーチに就任。2010年に日本サッカー協会公認B級コーチライセンスを取得〔 日本サッカー協会 2010.04.07〕。2011年よりJFA公認A級コーチジェネラル養成講習会を受講し〔 日本サッカー協会 2011.05.12〕、翌2012年にライセンス取得〔日本サッカー協会 2012.04.12〕。2014年にはS級ライセンスを取得した〔 日本サッカー協会 (2014年4月10日)〕。
2015年、ファジアーノ岡山のコーチに就任〔戸田光洋コーチ就任のお知らせ ファジアーノ岡山 (2015年1月8日)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「戸田光洋」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.