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戸田 和幸(とだ かずゆき、1977年12月30日 - )は、東京都町田市出身の元プロサッカー選手。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。元日本代表。 == 来歴 == === クラブチーム === 桐蔭学園高を卒業後、1996年に清水エスパルスに入団。1999年、不動の3バックの一角として清水のステージ初制覇に貢献する。しかし、同年のジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第1戦では風邪で欠場という大失態を演じてしまう。 2001年、カルロス・サントスの移籍による穴を埋めるため、ゼムノビッチ・ストラヴゴ監督によってボランチへとコンバート。 清水時代の髪型は、総金髪のウルフカット、後に黒髪のモヒカンにしている。2002年W杯ではモヒカンの色を赤に変更。 2003年、02年W杯の活躍によりイングランド・プレミアリーグのトッテナム・ホットスパーFCに移籍〔当初は移籍先としてサンダーランドと交渉していたが、交渉が上手くまとまらなかった所にかつての恩師スティーブ・ペリマンの橋渡しで急転直下トッテナムに移籍となり、日本サッカー界とサンダーランドサポーターを呆然とさせた。〕。 2004年にはオランダ・エールディヴィジのADOデン・ハーグに移籍したが、いずれも満足な成績を残せず、2004年のJリーグ2ndステージから再び清水エスパルスに復帰した。 2005年、「優勝できるチームへ行きたい」と清水を離れ、東京ヴェルディ1969へ移籍。レギュラーとして活躍するも、チームの調子は上がらず、東京VはJ2に降格。再び移籍を選んだ。 2006年からはサンフレッチェ広島へレンタル移籍。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の方針により、清水時代以来となる3バックのリベロで出場すると共に、移籍1年目途中からゲームキャプテンも務めた。完全移籍した翌2007年もリベロでレギュラー出場したものの、広島は京都との入れ替え戦に敗れてJ2降格。複数年契約を結んでいたため翌2008年も広島でのプレーを選んだが、DFではなく本職のボランチでの起用を望んだ結果、森崎和幸や青山敏弘らとのポジション争いに敗れ、出場機会が激減する。 同年6月、結城耕造とのトレードの形でジェフユナイテッド市原・千葉へレンタル移籍。怪我が重なって出場試合数は多くなかったが、戸田の出場した試合ではわずか1敗と、千葉のJ1残留に貢献した。 シーズン終了後、広島・千葉双方から戦力外通告を受け一時無所属となるが、韓国・Kリーグの数クラブで練習に参加し、2009年3月に慶南FCと契約。しかし、怪我による離脱が長引き、出場は9試合に終わった。 2010年、ザスパ草津へ完全移籍したが、2011年11月17日、契約満了により戦力外通告を受けた〔契約満了選手のお知らせ Jリーグオフィシャルサイト 2011.11.17〕。 2012年、この年からJ2に参入した地元クラブであるFC町田ゼルビアに加入するも〔戸田 和幸 選手 完全移籍加入のお知らせ FC町田ゼルビア 2012.1.6〕、監督オズワルド・アルディレスとの確執〔置かれた環境で悩むすべての人へ 干されてもがき、信念を貫いた元日本代表の言葉 サッカーキング 2013.7.10〕から出場機会は無しに等しく1年限りで退団。 2013年、SリーグのウォリアーズFCに入団。同年11月14日、自身のブログで2013シーズン限りでの現役引退を発表した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸田和幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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