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戸田 忠行(とだ ただゆき)は、下野足利藩の第8代(最後)の藩主。宇都宮藩戸田家分家8代。 == 生涯 == 弘化4年(1847年)10月2日、第6代藩主・戸田忠禄の四男として生まれる。父は忠行が生まれる前の9月20日に死去したため、戸田氏の家督は父の婿養子であった忠文が継いだ。安政3年(1856年)に忠文が死去したため、忠行はその養子となって家督を継ぐ。文久2年(1862年)12月16日に従五位下・長門守に叙位・任官する。 文久3年(1863年)6月から職制改革などを主とした藩政改革を行なう。慶応3年(1867年)10月に陸軍奉行並に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では幕府・新政府の双方に対して曖昧な態度を取ったが、最終的に新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により足利藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官された。 その後は東京へ移り、神田表の神保町に住んだ。明治12年(1879年)に海軍裁判所御用掛・海軍御用掛に任じられる。明治17年(1884年)の華族令で子爵となった。明治25年(1892年)に本郷区駒込の東片町に移住したが直後に火事で家を焼失、本郷区向岡の弥生町に移った。明治30年(1897年)に貴族院議員となり、明治39年(1906年)に勲4等を受賞する。 大正6年(1917年)8月22日に隠居する〔『官報』第1527号、大正6年9月3日。〕。大正7年(1918年)12月31日に死去した。享年72。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸田忠行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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