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戸田 氏房(とだ うじふさ)は、江戸時代中期の大名。美濃大垣新田藩(三河畑村藩)の第2代藩主。大垣藩戸田家分家2代。 == 生涯 == 宝永元年(1704年)、美濃大垣藩の第4代藩主・戸田氏定の五男として生まれる。享保4年(1719年)に大垣藩新田藩の初代藩主・氏成が死去したため、家督を継いだ。 三河国、美濃国両国内で1万石を領し、従五位下、右近衛将監に叙位・任官し、三河国渥美郡畑村に居館を営んだ。資性温雅寡言、体躯雄偉にして古将の風ありといい、享保10年(1725年)7月21日、江戸城内にて松本藩主・水野忠恆が長州藩支藩の長府藩世子・毛利師就に斬りかかったところ、師就は不意をつかれて負傷したものの、腰刀で忠恆の脇差を落とし、そこに通りかかった氏房が忠恆の腰刀を奪い、速やかに狼藉を鎮定したという。ちなみにこの事件は忠恆と師就は面識がなく、自らの不行跡が世に知れ渡って、所領を没収され、それが毛利師就に下賜されると聞いたことから、斬りつけたとあらぬ妄言を述べたことから、忠恆の妄想による乱心として切腹に処せられたという、江戸城殿中での刃傷事件は解決された。 その後、氏房は大番頭、奏者番、西丸若年寄を歴任する。宝暦9年(1759年)10月23日に死去した。享年56。跡を長男の氏之が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸田氏房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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