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戸田 邦雄(とだ くにお、1915年(大正4年)8月11日 - 2003年(平成15年)7月8日)は日本の作曲家。本名は戸田盛国。 == 略歴 == 東京府本郷の東大病院で生まれ、六本木で育つ。祖父は尾崎三良。義理のおじに尾崎行雄がいる。父親はいわゆる高等遊民だったが、1927年(昭和2年)の金融恐慌で没落した。東京府青山師範学校附属小学校から東京高等学校文科乙類を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東大オーケストラ部の仲間に繁田裕司(後の三木鶏郎)がいた。 1938年(昭和13年)に外務省に入る。ドイツ赴任中にカラヤンやフルトヴェングラーの演奏に接する。駐ソ連日本大使館勤務の後、独ソ戦の激化に伴い1941年(昭和16年)に帰国して諸井三郎に作曲を師事した。その間に「ピアノ協奏曲」がコンクールに入選している。1944年(昭和19年)、サイゴン(現在のホーチミン)に赴任。プノンペンで終戦を迎えた後、フランス軍によって抑留され、3年間をサイゴンにて送る。その間にルネ・レイボヴィッツの著書『シェーンベルクとその楽派』(1965年(昭和40年)に入野義朗によって翻訳された)を読み、ピアノのための「前奏曲とフーガ」を作る。この曲は未完に終わったが、日本人が十二音技法をはじめて用いた作品だとされている(『日本の作曲家20世紀』音楽之友社、1999年(平成11年))。 帰国後外務省に戻るとともに、この本を柴田南雄や入野義朗に紹介した。彼らが十二音技法の第一人者としてみなされるようになったのは戸田の功績である。しかしながら、彼自身はオペラ「あけみ」(1956年(昭和31年))までこの技法を封印する。その間、「ト調の交響曲」(1952年(昭和27年))が第1回尾高賞に選ばれた。 1950年代からは舞台作品や声楽曲に力を注いでおり、5曲のバレエの他、オペラ「あけみ」「伽羅物語」、オラトリオ神秘劇「使徒パウロ」、カンタータ「袈裟と盛遠」(芥川龍之介原作)、語り物「高瀬舟」(森鴎外による)などが生まれている。 1964年(昭和39年)に外務省を退職してからは、桐朋学園大学や洗足学園大学で教鞭をとった。 妹の戸田敏子はアルト歌手で東京藝術大学名誉教授。柴田南雄の最初の妻〔『音楽の世界』1998年(平成10年)10月合併号掲載のインタビュー「戸田邦雄さんに聞く~外交官で作曲家であった人生」 で戸田はサイゴンから帰国した1948年(昭和23年)の頃を振り返り「当時妹の夫だった柴田南雄」と発言している。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸田邦雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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