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房相一和(ぼうそういちわ)とは、天正5年(1577年)に締結された安房里見氏と相模北条氏との間の同盟。ただし、当時の呼称は「相房御和睦」であり、「房相一和」は後世の呼び方である。 通説では2年後の里見・北条両氏間の婚姻関係終了にともなって破綻したとされているが、国分(領土分割協定)としては天正18年(1590年)の小田原征伐(小田原合戦)による北条氏没落まで存続したとする説もある。 == 前史 == 北条氏と房総半島との関わりを示す最古の記録は、永正13年(1516年)に北条早雲(伊勢盛時)が、真里谷城の武田氏と小弓城の原氏との争いに関与して上総国に攻め込んだのが最初とされている(「藻原寺文書」)。この年は北条氏が三浦氏を滅ぼして三浦半島を制圧し、東京湾(内海/江戸湾)を挟んで房総半島と対峙するようになった年でもあった。一方、里見氏では里見義通・義豊親子が当主として安房国を平定した時期に相当し、永正12年(1515年)には義通の弟の実堯を妙本寺に配置して、ここを本拠として上総国に進出を開始していた。両者の勢力圏が重なり合うようになったのは、上杉氏の城であった武蔵国江戸城が北条氏に占領され、同氏による東京湾支配の動きが活発化してからのことと考えられている。 その後、下総国における古河公方と小弓公方の争いに関わる形で里見・北条両氏が軍事衝突を行うようになる。代表的なものとしては、大永6年(1526年)の里見義豊の品川・鎌倉攻撃、そして里見・北条両氏が2度にわたって激突した国府台合戦などが挙げられる。ただし、両氏の勢力は海上においては隣接していたものの、陸上においては下総の千葉氏・上総の武田氏(真里谷氏)が依然として存在して緩衝地帯のような役割を果たしており、両氏の勢力が直接衝突するようになったのは、千葉氏が北条氏の影響下に置かれ、武田氏(真里谷氏)が没落して里見氏がその領国に進出した天文22年(1553年)以後のことである。北条氏康によって里見義堯・義弘親子が本拠としていた上総国金谷城・佐貫城が奪われて久留里城も包囲されるなど、北条氏優位に展開していったが、里見義堯は関東管領上杉謙信と同盟を結んでその支援を受け、また北条氏康が推す古河公方足利義氏に対抗してその兄である足利藤氏を擁立するなど激しく争った。特に永禄10年(1567年)に行われた三船山の戦いにおいて里見義堯が北条氏政を破って里見氏が反撃を開始したことは、早雲以来大きな敗戦をせず勢力拡大を続けてきた北条氏にとって、当主が率いた主力の大敗による初の勢力圏縮小という大事件となった〔滝川恒昭「北条氏の房総侵攻と三船山合戦」(千葉城郭研究会 編『城郭と中世の東国』(高志書院、2005年)ISBN 978-4-86215-006-6)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「房相一和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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