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扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - 1992年4月10日)は日本の評論家、編集者、ジャーナリスト。"週刊誌の鬼"の綽名で知られた。 == 来歴 == 宮城県遠田郡涌谷町出身。1935年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業後、朝日新聞社に入社。青森・仙台支局をへて37年社会部記者、38年戦争特派員として第101師団に配属され、武漢作戦に参加。1941年12月、再度戦争特派員として高雄に派遣、フィリピンのリンガエン湾に上陸。 1944年(昭和19年)3月、応召され、歩兵第4連隊に配属。三か月、朝鮮の羅南で訓練を受け、通信兵となる。師団隷下の旅団〔文中では師団名を第106師団としているが、同師団は1940年に解散しているため一致しない。第58師団の誤りか〕として湘桂作戦(ト号作戦)に参加。20日ごろ、漢口付近にて終戦を知る。最終階級は一等兵。従軍記者であった頃は周囲が下士官や将校ばかりであったため兵隊を凛々しい、勇ましい存在と思っていたが、いざ自身が一兵卒となってみると、古兵からのリンチ、戦友の死などみじめな状況を目の当たりにし、軍隊に対する価値観が変わったという〔ノーベル書房編集部編『陸軍郷土歩兵聯隊写真集 わが聯隊』 ノーベル書房、1979年。p80〕。 1946年春、復員。1947年『週刊朝日』編集長に就任。1948年6月、太宰治の心中に際して山崎富栄の遺書を入手し太宰特集号を発行、この号はたちまち完売、同誌を十万部から百五十万部に伸ばした。1953年、菊池寛賞受賞。 のちに朝日新聞社学芸部長や論説委員を歴任して1968年退社。大宅壮一から「文春の池島、暮しの手帖の花森と並ぶ戦後マスコミの三羽烏」と讃えられた。朝日新聞社退社後は評論家として活躍。多数の随筆、自己啓発本を書き、多くの対談を行った。 1970年代には、政治家を招いての座談テレビ番組『春夏秋冬』(日本テレビ放送網)の司会を担当したこともある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「扇谷正造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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