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写真植字機(しゃしんしょくじき)は、写真技術を応用し、作業者の入力に応じて印画紙に文字を出力することで組版を行い、印刷用の版下を作る装置。写植機と通称される。光を使って版下を作るタイプライターとでもいうべきコンセプトで作られている。 ここでは手動写植機について扱い、電算写植は別記事を参照されたい。 ==開発== 写真植字機は、19世紀末に開発された鋳植機(1886年)やモノタイプ(1887年)など、先に実用化された技術である鋳植機の延長・発展として着想された。写真技術を用いて、鋳植機における母型を文字盤に、鋳造部分をレンズと印画紙に置き換え、装置全体の小型化を狙ったものが写真植字機であると言える。1890年前後から主にイギリスとドイツで研究が進められ、後に試作機も製作されていたが、実用化・商用販売に至ったのは日本の石井茂吉と森澤信夫によるものが最初であった。日本が世界に先んじた背景には、欧文活字が文字ごとにそれぞれ固有の幅をもっており、文字盤の送り装置に複雑な機構が要求されたのに比べ、和文組版では基本的に文字が等距離に並ぶため、そのような問題を回避できたということがある。また、活字一揃いの字数が少ない欧米ではすでに鋳植機が発達・普及しており、日本ほど写真植字機が必要とされていなかったことも否定できない。 1924年3月、新聞記事で写真植字機について知った森澤が石井に相談を持ちかけたのが開発のきっかけとなり、同年7月には国内で特許を出願する。1925年6月に認可を受け、開発を始めて8ヶ月後の同年10月に試作第一号機を完成させた。そして1926年11月、石井の自宅に写真植字機研究所(後の写研)が設立された。開発にあたっては、主に石井がレンズと文字盤を、森澤が他の装置部分を担当したとされる。商用販売が実現したのは1929年であるが、これは印刷会社5社がそれぞれ1台ずつ、好意によって試験的に導入したものである。開発と比べ普及は進まず、森澤は1933年に同研究所を退社し、他業に転ずる。戦前、写真植字機は装置が小型で運搬しやすいところから、機密保持や外地での宣伝用印刷物製作に向くとされ、主として軍関係に利用された。 戦後、写真植字機研究所の設備は戦災により全て焼失していたため、理研工業から製造権の譲渡が打診された。しかし石井は提示された条件を良しとしなかった。そこで共同発明者である森澤と相談のうえ、再び森澤と結び、機械本体を森澤が、レンズと文字盤を石井が製作する共同事業として、写真植字機の開発が再開する。当時は印刷物の需要が非常に大きく、活版印刷と比べて設備の簡便な写真植字機は積極的に導入され、急速に普及していった。 当初は文字盤の書体として金属活字のそれを流用していたが、のちに平版オフセット印刷の特性を考慮した、いわゆる写植文字としての開発・改良がなされていく。石井と森澤はそれぞれ写研とモリサワという二大企業に分かれ、両社が国内の業界を牽引していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「写真植字機」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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