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手向山(たむけやま)は、福岡県北九州市小倉北区赤坂4丁目にある高さ76メートルの山である。小倉北区と門司区の境界に位置する。宮本武蔵を顕彰する小倉碑文があることで有名。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘(巌流島の決闘)が行なわれたとされる1612年(慶長17年)4月13日にちなみ、毎年4月13日前後の日曜日に手向山山頂の公園で、『武蔵・小次郎まつり』が開催される。2009年4月12日には、『第59回 武蔵・小次郎まつり』が開催された。 == 概略 == 足立山系最北部に位置し、正面には関門海峡、彦島、巌流島などが見える。企救半島の付け根に位置し、小山ではあるが企救半島と小倉平野を分断している。古くから地政学上の要衝であり、小倉と門司の往来は、手向山北側の街道(門司往還)か、手向山南側の峠(鳥越峠)が利用された。 宮本武蔵の死から9年後の1654年(承応3年)、小倉藩で筆頭家老をつとめていた武蔵の養子、宮本伊織が山頂から巌流島(船島)が見渡せる手向山山頂に養父の顕彰碑を建立した。この頃、伊織は小倉藩主小笠原忠真より手向山を拝領しており、宮本家代々の墓は武蔵顕彰碑のとなりに設置されていた。しかし明治時代、手向山が軍事要塞化されたさい、小倉碑文はとなりの延命寺山(赤坂山)に、宮本家代々の墓は手向山の麓に移設された。宮本伊織らの墓は今も手向山の麓にある。 1887年(明治20年)、関門海峡周辺の要塞化にともない、下関側の田の首砲台とともに手向山は最初に砲台の設置がはじまった。長崎事件は前年であり、日清戦争は7年後のことだった。これより手向山は一般人の入山が禁止された。山は小倉にあった帝国陸軍第12師団支配下の下関要塞司令部によって1945年(昭和20年)まで管理された。 1942年(昭和17年)、関門トンネルの開通にともない、鹿児島本線の路線拡大が行われた。鉄道にはじき出されるかたちで、旧国道2号(現国道3号)が山側にルート変更された。同年手向山に手向山トンネルが掘られた。国道上には西日本鉄道北九州線の併用軌道が設けられていたことから、同線も手向山トンネルを通ることとなり、このトンネルは1985年(昭和60年)10月19日まで西日本鉄道唯一の山岳トンネルであった。 太平洋戦争の末期には、市街地空襲で西鉄北九州線の車両基地が被災する事態に備えて電車の退避場所を確保することとなり、手向山トンネル西側の北九州本線から山腹へ分岐する引込線を設け、山腹に2本の退避線が設置された〔奈良崎博保 『福岡・北九州 市内電車が走った街 今昔』 JTBパブリッシング、2002年4月、ISBN4-533-04207-4、pp.104-105〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「手向山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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