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承久記[じょうきゅうき] 『承久記』(じょうきゅうき)とは、承久3年(1221年)後鳥羽上皇の挙兵によって起こされた承久の乱を記した公武の合戦記である。『承久軍物語(じょうきゅういくさものがたり)』『承久兵乱記』(同名異書あり)などとも呼ばれる。保元・平治・平家と続く「四部之合戦書」の最後の戦記物で鎌倉武士が王朝を崩壊に追い込むさまと、封建体制確立の過程をえがいている。作品の評価は完成度の点で高くないとされるが、後鳥羽院の描いた王政復古の夢をやや批判的に首尾一貫した姿勢で書いている。 == 成立と内容 == 承久記は異本が多く、諸本によって成立年代には差〔慈光寺本は承久の乱終結より近い段階で成立したと推測されている。〕がある。もっとも古いものとされる慈光寺本の成立は鎌倉中期頃と推定される。他に「古活字本」(流布系)「前田家本」「承久兵乱記」「承久軍物語」などがあり、文体はすべて和漢混淆体である。「承久軍物語」(全6巻)を除き、上下2巻。作者は未詳。 「承久記」と思われる軍記物の初見は洞院公定の「公定公記」応永7年(1374年)4月21日条に見え、「平家勘文録」などの複数の史料に「保元物語」「平治物語」「平家物語」「承久記」の四つを「四部合戦状」(しぶがっせんじょう)(あるいは「四部之合戦書」)と呼んでいたことを見ることができる。承久記はこの「四部合戦状」の最後にあたる。 内容は慈光寺本を除くと、後鳥羽上皇の記述から始まり、土御門上皇の配流に終っている。慈光寺本の冒頭は、仏教的な書き出しと、内容で他のものとは若干の思想的な違いがある。その慈光寺本を除くと承久記は後鳥羽上皇に対して批判的な記述が多く、古活字本には「賢王・聖主の直なる御政に背き、横しまに武芸を好ませ給ふ」とさえ書いてある。代わって北条義時に対して好意的に見ている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「承久記」の詳細全文を読む
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