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投壺(とうこ)は、中国の宴会の余興用のゲームである。壺(通常は金属製)に向かって矢(実際には木の棒)を投げ入れるゲームで、原理的には輪投げやダーツに近い。 非常に古い伝統のあるゲームであり、本来は負けた側が罰杯を飲まなければならないものであった〔『礼記』投壺「勝飲不勝者」〕。 現在は主に大韓民国で行われている。 ==歴史== 投壺は『春秋左氏伝』にも見える非常に古いゲームである〔『春秋左氏伝』昭公十二年伝「晋侯以斉侯宴。中行穆子相。投壺。」〕。『礼記』および『大戴礼記』に投壺篇があり、投壺の儀礼、壺と矢の寸法、席から壺までの距離などを細かく規定している。 後世になると、『礼記』の記述とは異なる多くの特殊ルールがつけ加えられていった。たとえば『西京雑記』によると、壺に投げ入れた矢がはねかえるのを「驍」といって尊んだという〔『西京雑記』巻5「武帝時、郭舎人善投壺。以竹為矢、不用棘也。古之投壺、取中而不求還。故実小豆於中、悪其矢躍而出也。郭舎人則激矢令還、一矢百余反、謂之為驍。」〕。顔之推『顔氏家訓』の雑芸篇でも、驍が重視されたことが見える〔『顔氏家訓』雑芸「投壺之礼、近世愈精。古者実以小豆、為其矢之躍也。今則唯欲其驍、益多益喜。乃有倚竿・帯剣・狼壺・豹尾・竜首之名。」〕。また、壺の脇に「耳」と呼ばれる部分を設け、そこに矢が通るのを通常よりもよいとした。 北宋の司馬光は投壺が礼記から離れた特殊な技能を競う娯楽になっていることを批判して『投壺新格』を著し〔 「世伝投壺格図、皆以奇雋難得者為右、是亦投瓊探鬮之類耳、非古礼之本意也。」〕、新しいルールを定めた。ただし司馬光のルールは当時すでにあったルールを改訂したものであり、礼記のルールとは一致しない。 『金瓶梅』などに、鞦韆とともに「性的なスポーツ」として紹介される。 清以降になると投壺はすたれていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「投壺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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